バックナンバー
トップページに戻る前のページに戻る (週日の説教は、主に火曜日の夕ミサの説教を掲載します)
    
聖書朗読 女子パウロ会HPにリンク
江礼宮夫さんのブログにリンク
印刷用ページが開かない時は
Adobe Reader をダウンロードしてください。
Get Adobe Reader
        
印刷用ページへ 全ての【神の種】の印刷用ページ(PDF PDF文書)は、ここをご覧下さい。
新しい【神の種】(公式HP)へ 2008年11月以降の新しい閲覧用の【神の種】は、ありません。
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月以降の閲覧用はありません。
2007年の【神の種】へ
9月 10月 11月 12月                                       


2008年 8月3日 8月5日 8月10日 8月12日 8月14日 8月15日 8月17日 8月19日 8月21日 8月22日 8月24日
8月26日 8月28日 8月29日 8月30日

                      印刷用ページ(PDF PDF文書) 
このページの先頭へ                                           年間第22主日    金 大烈 神父   2008年8月31日(日)
    
             《今日、私は〝喜び・感謝の心″を選択します》
 先程、答唱詩編の中で私達が歌ったきれいな言葉があります。『乾き果てた土のように、神よ私はあなたを慕う』。これが文章としてではなく、皆様の心から湧き上がった言葉であれば、皆様は幸いです。〝乾いた″ではありません、これ以上乾くことの無いほど〝乾き果てている″土です。その土が望むものは『私はあなたを慕います』という心です。この様な告白が私達共同体の皆が出来るように祈りたいと思います。
 さあ、今日の福音(マタイ16・21-27)に入って行きましょうか。今日ペトロが叱られますよね。〝サタン″という言葉まで使われるほど、ものすごく叱られます。何故叱られたのでしょう。イエス様がおっしゃるのは『お前は神様の事を思わず、人間の事ばかり思っている』『おまえは私の邪魔をする』。きつい言葉ですよね。私達は〝選択″〝選び″の内に毎日を送っている事を皆様も自覚しているでしょう。〝選択″には2つの種類があります。1つは一般的な、日常的な選択、そしてもう1つは〝霊的な選択″です。
 今日は〝霊的な選択″について皆様と分かち合えればと思います。〝霊的な選択″とは何でしょうか。その言葉の意味を理解する為に、使徒パウロがおっしゃった箇所を読ませていただきます。ローマの信徒への手紙7章21節 『それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪がつきまとっているという法則に気付きます』。偉大な聖人であるパウロも「私が何か良い事をしようとしている時に、隣にいてそれを邪魔しようとする、反対の方向に行かせようとする悪の勢力があるのを感じています」とおっしゃっています。
 すなわち、私達の心の中に共存するものは〝善に向く心″と〝悪に向く心″です。自分が悪を良しとしなくても、そちらに傾いてしまう心があるのを私達は分かっています。 霊的な選択とは自分の中にある心の働きから何を選択して行くかだと思います。霊的な選択には何が必要ですか。それは霊的な〝分別力、識別力″です。そして、その霊的は分別力、識別力は絶え間ない祈りから生じます。
 「イエス様、私はどちらの道を選んで良いか分かりません、どちらについて行くのが私にとって幸せになるのか分かりません。迷っています。正しい識別力を下さい」という祈りによって私達は正しい道を歩めます。使徒パウロさえ叫んだ自分の中にある弱さ。何故私は良い事をしようとするのに、その中に違う勢力があるのか、何故私は出来るだけきれいな姿を見せようとするのに、腐っている自分の姿が見えるのか。共に私達は逝きます。ですから生ある時は、私達は絶えず霊的な緊張感の内に自分を見なければならないのです。負けないように、悪い傾きに負けないように。自分との戦いを避けてはいけません。それの為にはやはり祈りが一番大事なことだと思います。即ち、祈りによってです。
 今日叱られたペトロを思いながら私達の事も振り返ってみましょう。私は神様の事と自分の事がぶつかる時にどの様な気持ちになるか。イエス様が自分に対し『教会に行ってミサに与って欲しい』と思っていらっしゃる事が分かっても、自分はお風呂に入ったり、テレビを見たり自分の時間をとりたいという思いがある。その時何を選びますか。簡単な例え話かも知れませんが、この様に〝選択しなければならい事″は私達の前に沢山あります。その時、霊的な分別力を求めながら、正しい道を選ぼうとする努力がなければ、今日私達が歌った『乾き果てた土のように、神よ、あなたを慕います』という心は生まれては来ないのです。
 皆様に提案します。私達は毎朝、目が覚めた時何を思うのでしょうか。何を考えるのでしょうか。イエス様の前で約束してみましょう。朝、目が覚めた時「今日、私は喜びを選びます、感謝の気持ちを選択します」と。やってみましょう。目が覚めた時決めた心はその日一日中続きます。朝がきれいに開けたらきれいな夜を迎えられます。今日の御ミサを通して決心してみましょう。初めのうちは忘れる事があっても、続ける事によって、努力する事によって身についていくと思います。そうすると夜寝る時に「感謝します。今日一日色々な事が有りましたが、あなたの事を忘れませんでした」という感謝の祈りが出来ると思います。
 最後に少し聖書と離れた話をします。徳川家康をご存じですよね。その時代にキリシタンと呼ばれるキリスト教の信徒達が沢山いました。そしてその人達は色々な迫害を受けました。幕府の勢力により多くのキリシタンが追われました。その追われた人々の1つの群れが群馬にも来ました。その人々は隠れキリシタンとなり群馬に住みました。中でも一番多かったのが館林でした。館林からまた広がって邑楽町にも大勢の隠れキリシタンがいたのです。そしてその跡とか遺跡が沢山残っています。私も何日か前にその話を始めて聞きました。
 5年前から有志の信者さん達がその跡を探し、よい発見がありました。邑楽町にも隠れキリシタンがいたと言うことは、言葉を代えれば太田教会の建つこの土地は〝聖地″です。600年というカトリックの歴史、その歴史が生きている、いわゆる聖地を持っている教会です。9月15日(月)休日ですが、その跡をたどり一緒に歩んでみたいと思います。朝8時半、お弁当持ちで教会集合です。山道もあるので沢山の人は入れません。先着20名の方とさせていただきます。興味の有る方いらして下さい。まず、私達の〝家″である邑楽町を訪れます。色々な実りを見ることが出来ると思います。館林や古河も訪れます。時間が取れる方は是非参加してみてはどうでしょうか。
                      
                                         ありがとうございました。
     

                      印刷用ページ(PDF PDF文書) 
このページの先頭へ                                              週日の説教    金 大烈 神父   2008年8月30日(土)
    
             《神様から与えられた機会を精一杯生かしましょう》
 今日の第一朗読(一コリント1・26-31)に「誇る者は主を誇れ」という言葉がありますね。「主を誇れ」 とはどういう意味でしょうか。私たちの主イエス・キリストを本当に誇るべきものという感激の心で人々に伝えたことがありますか。ほとんどないのでないでしょうか。
 私たちは信仰生活の中の一番基本的な部分にさえもついて行けていないことがよくあります。これは、ただ読んだだけで通り過ぎてしまいそうな箇所ですが、よく考えて見ると、本当に主を誇ったことがあるのか考えさせられる箇所です。そして、そういう反省から私たちの成長が始まります。「振り返って見ましょう」 とよく言うのは、こういう一つの箇所でも通り過ぎてしまわないで慎重に耳を傾けるようにということです。そういう敏感な心がなければ、素晴らしいみ言葉が表れても気がつかないで通り過ぎてしまうかもしれません。私たちは、そういう弱さを持っていることを意識しなければならないと思いました。
 今日の福音(マタイ25・14-30)について、考えてみました。
 人間には、いろいろなタイプがあります。何もしなくても何でも上手に出来る人、いくら頑張ってもいつも同じ結果になってしまう人。格好がよくて、頭も優れていて、いろいろなものを持っている人。また、生まれつきの障害を持っている人もいます。
 今日の福音(マタイ25・14-30)では、5タラントンを受けた人、2タラントンを受けた人、1タラントンを受けた人が出てきます。5タラントンを受けた人は2倍にもうけて、10タラントン受けました。2タラントン受けた人も4タラントンになりました。しかし1タラントン受けた人は、持ち主が蒔かないところからも刈り取る怖い存在だと思いながら、土を掘って埋めて隠しました。結果として、何もしないまま隠した人は追い出されます。
 ここから私たちは一つ悟らなければなりません。もちろん、現実的には、もう少し多くもらった人もいるでしょうし、もっと少なくもらった人もいるでしょう。しかし、その量は人が救われるための基準ではないことに気づかなくてはなりません。むしろ、たくさんもらった人が何もしないまま全部失ってしまうと、1タラントンを隠した人よりもっと悪く評価されると思います。イエスさまは、「1タラントンもらった人も何とかしてそれを増やさなければならない」 と厳しくおしゃっています。
 私たちと神様との約束の一つは、神様が私たちをこの世に使わした目的のために頑張るということです。私たちはその目的を果たすために、頑張ってやりとげなくてはなりません。
 ある人は、人の目はいつも比較するものだと思っています。あの人は恵まれているが自分は恵まれていない。そしていつも自分だけがいじめられる。そんな自分を隠そうとする思いが、カトリック信者である私たちにも結構あります。
 そういう人には、挑戦する精神もないし、ぶつかる勇気もない。ただ、自分を隠そうとする。そういうところが私たちの中にはあるのではないでしょうか。
 しかし、イエス様が願うことは、あたえられたその金額には関係ないものです。ただ、自分の器に合わせて頑張っていけばそれでよい。それがイエス様のみ心です。たくさんもらってもいつも不幸な生活をする人は、可哀想です。1円だけをもらっても、その1円の意味、そして自分の生きる生き方の意味をはっきり分かった人は何億円ももらった人より幸せではないでしょうか。
 結局、いくらもらったかは問題ではないのです。もらったものに対してどのように大切にし、それをうまく成長させられるか。その心が問題なのではないかと思います。
 カトリックの信仰は希望です。いつも希望を前に置いて、死ぬまで自分の中に 「頑張ろう」、「成長させよう」、「満足できる自分をつくろう」 と思う心を持つことが必要なのではないかと思います。
 最後に、イエス様の表現の方法についてですが、「追い出す。すると泣きわめいて歯ぎしりするだろう」 という言葉をよく使います。「歯ぎしりする」 というのは悔しいことを意味します。「泣きわめいて、悲しくなるだろう」 とはおっしゃっていません。それは、自分にも出来ることだったのに、なぜ怠けてしまい、勇気を出して挑戦しなかったのか。そういうことに対する悔しさです。イエス様は、追い出した主人に対する憎しみなどは一つも言っていません。自分のことを反省し、なぜ与えられた機会を生かせなかったのか、ということについて悔しく感じることをおっしゃっています。
 私たちは今も生きているし、これからも生きます。私が今このようにしたら将来はこうなるだろうと考えながら選択をします。その選択が正しくなるためには、よく自分の姿や過去を見て予測をすることです。悔しさが生じないようにするためには、今現在のことを一生懸命にやり通そうとする姿が一番大事ではないかと思いました。
                                          ありがとうございました。
              

                      印刷用ページ(PDF PDF文書) 
このページの先頭へ                                              週日の説教    金 大烈 神父   2008年8月29日(金)
    
               《これからの人生に希望をもたなくてはなりません》
 洗礼者ヨハネの生涯は聖書を通してよく知っています。簡単に要約して紹介しますと、彼は、キリストの先がけの役目をしました。救い主がこの世に来られるために道を整えました。悔い改めさせて洗礼を授けました。そして、キリストが十字架にかけられることの先がけとしては、ヘロデによって首を切られるという殉教の姿でした。
 ヨハネの母はエリザベトです。では、息子ヨハネを見る母親であるエリザベトの心はどの様なものだったでしょうか。子どもを望んでいたのにできなくて諦めてから沢山時間が経ち、子供を望んだことさえ忘れた位の高齢になってから神様のみ旨によって突然、赤ちゃんを授かります。何という幸せなことだったでしょう。その子どもは、親の愛情をたっぷり貰いながら成長したと思います。しかし、青年になったヨハネはある日、荒野に行ってイナゴとミツを飲みながら、叫び声となり、人々を改心させます。その姿を見る母の気持ちはどうでしょうか?そしてある日、叫び声が大きすぎて王に首を刎ねられてしまいます。そんな便りを耳にしたらどんな気持ちになるでしょうか。辛いでしょう。話せないような辛さだったでしょう。
 「運命」という言葉がありますが、どういうものか知っていますか。自分が今まで歩んできた人生を振り返ってみてください。それを「運命」だと思っていますか。仕方なく、しなくてはならないことを「運命」といいます。では、いつかイエス様を裏切り、自殺をするのは、ユダの生まれたときからの運命だったのでしょうか? 運命というものはあるのでしょうか?
 「召しだし」という言葉があります。司祭や修道者になることです。「あなたは、神様から呼びかけられているから、最後まで司祭職を果たさなければならない。それはあなたの運命だから。」というのが正しい考えでしょうか。では、イエスさまの御心はどうでしょうか。もし、ある司祭がいれば、呼びかけに応えて司祭職を果たすことを誰よりもイエス様は望んでいらっしゃると思います。しかし、「あなたが一番幸せな道を選んでほしい」というのがイエス様の御心だと思います。たとえば、ユダにはキリストを裏切らない人生もあったかもしれません。自分で、裏切らないように望めば、その道を避けられたのかもしれません。神様は、慈しみ深い方です。‘自分の栄光となる救いのために、犠牲を払ってほしい’という厳しい神様ではありません。「運命」という言葉は、閉じている感じがしますが、カトリック信仰の中でいう「運命」は開いているものです。
 私が今日、この言葉を通して皆様に言いたいのは、『過去を振り返ってみると、「きつかった、悲しかった、切ない運命だった。」という思い出を持っていて、その気持ちのまま残っている人生を迎える人が多いけれど、「振り返ってみて、あらゆる全てのことが恵みでした」という告白が出来るようになるためには、これからの人生に希望を持たなくてはならない』ということです。今までは、あなたの呼びかけに忠実に従ってついていくのが無理だったかもしれないけれど、これからは頑張ってあなたが望んで整えてくださったその道を歩みます、という希望を持つことが出来れば、私たちの運命はいつも希望的になります。ですから、今を善く生きることが大切です。
 母としてのエリザベトの気持ちは辛かったでしょう。しかし、永遠という時間の目で見れば、ヨハネは救い主の為にその道を整える使命を果した素晴らしい人生を歩んだ方です。一番素晴らしい人生を歩んで、永遠の冠をいただく主人公になったのです。私たちも‘手遅れ’という考えは捨てましょう。これからどのように私たちの人生が広がるか分からないのです。その時、「できるだけあなたのみ旨を果たそうと頑張り、ついて行きます。」という心になれれば、私たちは幸せになれると思います。
それが私たちに任されている運命です。その運命を、イエス様の恵みをいただきながら、出来るだけきれいに美しく格好よく生きるのが私たちの一番大きい召しだしではないでしょうか?
  
                                         ありがとうございました。
              

                      印刷用ページ(PDF PDF文書) 
このページの先頭へ                                              週日の説教    金 大烈 神父   2008年8月28日(木)
    
             
                  《善く生きて神様を待ちましょう》
 今日の福音(マタイ24・42-51)のテーマは、忠実な僕と不忠実な僕のたとえです。
 忠実な僕になる、ならない、の基準は何でしょうか? 今日、イエス様がおっしゃった言葉から考えると、〝どのような姿勢で待つのか″ではないかと思われます。正しい姿勢で待てるかどうかを見て、忠実であるかどうか判断できると話されたのではないでしょうか。
 では、正しく待つとはどういうことでしょうか? 大体私たちは、〝待つ″ことを耐えること、我慢すること、難しくても何とかしなくてはならいこと、と考えています。そのような重い感じの〝待つ″ことが多いのではないでしょうか? しかし、〝正しく待つ″というのは、‘今、ここで、よく生きること’です。いつ来るのか分からないからと、ただぼんやり生きるのではありません。キリスト教の〝待つ″ことはとても積極性を持ちます。ただ、〝・・・をしないように″と気をつけることではなく、積極的に何をしなければならないか考え、自分がなすべきことを ‘今、ここで’行い、生きている証拠を見せることです。それが、今日、イエス様のおっしゃったテーマの中心ではないかと思います。
 信者の方々が毎日ミサに与って、どのくらい喜びを感じているか、また、ミサに与る人が少ないのは、喜びを感じていないために積極的にミサに与れないのではないか、と気になっています。〝ただミサに与る″、〝ただ教会の教えについていく″、のではなく、喜びがなくてはならないと思います。喜びで、〝このミサを捧げなくてはならない″と思えるようになることが大切です。喜びにもいろいろありますが、会いたいものに会うために待たなくてはならない気持ち。だから早く時間が過ぎてほしい。そういう待ちかねる気持ちで準備する姿が美しいと思います。それが積極的にミサに与るというものです。
 そういう気持ちで過ごす信仰の生活は、絶対にその人に喜びを与えます。結局、信仰は、味わうことなのです。
 「あなたの喜びを味わわせてください、味わうことができるように導いてください」、そのように祈れるようになったら、自然に信仰の喜びを感じられると思います。
 考えてみてください。皆様に影響を受けて洗礼を受けた人は、何人いるでしょうか? 忠実な僕になるためには、自分だけの救いではなく、自分が味わった喜びの味を人に伝えなければなりません。それが、僕である私たちの大きな義務であり喜びなのです。
 各自の人生の終わりは、いつ、どろぼうのように突然、私たちのところへ来られるか分かりません。私たちは、裸の姿で迎えるかもしれないし、喧嘩をしながら迎えるかもしれません。何かについて痛みながら迎えるかもしれません。そしてとても大きな喜びで神様をたたえながら迎えるかもしれません。
 できるだけ、一番いい姿で神様を迎えようと準備することが、結局この世界でよく生きることです。この気持ちを保ちながらミサを捧げましょう。
                                      ありがとうございました。
              


                      印刷用ページ(PDF PDF文書) 
このページの先頭へ                                              週日の説教    金 大烈 神父   2008年8月26日(火)
    
             《神様からいただいた善い言葉で語りましょう》
 今日の第一朗読(二テサロニケ1・1-3a、14-17)の最後に書かれている使徒パウロの言葉を一緒に見て見ましょう。「私たちの父である神が、どうか、あなたがたの心を励まし、また強め、いつも善い働きをし、善い言葉を語る者としてくださるように」と願うものですね。一つずつ見て行きましょう。
 〝心を励まし″: 落ち込んでいる時に私たちが求めるのは、神様が励ましてくださることです。
 〝また強め″: 何が正しいか分かっているのに、勇気がなくてそれを行えないことがあります。必ず果たさなければならないという心からの響きがあったならば、神様にそれを行える勇気を求めましょう。
 〝いつも善い働きをし″: これは難しいことです。私たちが正しい行動をとれるように恵みをお与えください、という強い望みがなければ、これもかなえられないと思います。
 最後に〝善い言葉を語るものとしてくださるように″: 皆様の口からは何が出されているでしょうか? 人を癒す言葉でしょうか? 悪口、ねたみ、憎しみ、そういった悪い感情につながる言葉になってはいないでしょうか? 神様からいただいた恵みが口を通して出されるように、美しい言葉となるように、私たちはいつも自分の口に気をつけていないといけないと思います。いったん口から出てしまった言葉は取り戻せません。その言葉が誰かの心に対しどのような影響を及ぼすかについては、私たちに責任があると思います。もし私の口から出た言葉が刃物となって人を刺してしまったならば、それは大変なことです。口から出される言葉が相手を癒すように、そして癒される相手によって私自身も癒されるように、そのようなことを時には考えることが大切です。
 今日の福音(マタイ23・23-26)に入ってみましょう。偽善とは、何でしょうか? 偽善とは、本当の善ではなくて、偽(にせ)の善です。私たちは善を行うべきです。しかし、行った善がまことの善でなければ偽善者となってしまいます。偽善者にも二つの種類があります。二つとも望ましいものではありませんが、とても大きな違いがあります。
 一つは、自分自身でもうわべと中身が違うことに気づきながらもそのような姿を見せてしまう偽善者です。そういう人は、それを直せる可能性があります。自分の中の偽善に苦しんでいる人々は結構います。ある意味では、私たち全員がそうかもしれません。
 二つ目は、うわべと中身が違うことに気づかない偽善者です。これは恐ろしいです。自分の口から自分の目から自分の全てから出されるものを正しいと思いこんでいます。自分がいつも正しいと思い、間違えてもすぐに正当化をさせてしまいます。
 うわべと中身が違うこと、偽善者であることを意識する人は必ず救われます。神様、自分は正しくないのでどうぞ直してください、と願いがあれば必ずかなえられます。問題は自分が偽善者であることに気づかない人たちです。その人たちをどのように救うべきか、私にもよくわかりません。
 さて皆様、律法学者、ファリサイ派の人々はなぜイエス様から叱られたのでしょうか? ファリサイ派という言葉は、〝分離する、区別する″という意味です。分離されるのは、彼らには好ましいことでした。ふつう私たちは分離され、差別され、区別されることを嫌がります。しかし彼らは、罪ばかりの人たちと分離されて聖なるものとして認められると考え、それを喜び、自分たちをファリサイ派と名づけました。ファリサイ派や律法学者達が一番恐れていたのは、律法という掟を守れないことでした。これははっきりと罪を犯したことになります。
 彼らは、何に対してもまじめな人々でした。掟どおり、マニュアルどおりに生きるから、自分は正しいと思っていました。そのように生きることは決して容易なことではないが、努力をしているのだからそれなりにふさわしい恵みをいただかなくてはならない、そう思っていたのが律法学者、ファリサイ派の人たちでした。
しかしイエス様は、律法のもとでの一番大切なものは何なのか、その律法が作られた理由は何なのか、を正確に話されています。律法が作られた精神は、本当に大切なもの、あなたの心を守ることであるとはっきりおっしゃっています。
 しかし私たちも、人間によって作られたいろいろなものに縛られることがよくあります。人間の悪い弱さの一番代表的なものは、仲間作りです。仲間作りは、逆に言えば、仲間に入らないもの、入っていないものは自分達と全然違う、という差別につながります。そういう意識の中で生まれてくるのは縄張り意識です。
 今日の福音(マタイ23・23-26)でイエス様がおっしゃった批判的なみ言葉は、ファリサイ派や律法学者達だけに話している内容ではありません。私たちに話してくださっている内容だと思いながら、いつも自分を振り返ってみることが必要ではないかと思いました。
                                          ありがとうございました。
              

                 印刷用ページ(PDF PDF文書説教  
このページの先頭へ                                    年間第21主日 金 大烈 神父   2008年8月24日(日)
    
               《人生って何でしょうか?(マザー・テレサの詩より)》
 おはようございます。
 皆様聖堂に入る前に一枚の紙をお取りになったと思います。これはマザーテレサの詩を私が訳したものです。マザーテレサの生涯はご存知でしょう。立派な生き方を見せて、自分を全部投げ出して福音的に犠牲にしながら、死にかかっている人々、命が残り少ない人々のために全生涯を捧げた、いわゆる聖人であること知っていますよね。
 ある時彼女に一人の記者が聞いたそうです。「シスター、豊かな生活とか高級な生活をする人を見てうらやましくなりませんか?」 彼女は 「腰をおろして人に仕える者には上を見る余力がありません」 と答えたそうです。その言葉どおりに自分に与えられた人生を生きた方です。結局ローマ(バチカン)から認められて聖女になっていますが、その生き方に倣おうと心がけている人も結構多いと思います。彼女の詩です。皆様プリントを見て下さい。What is Life?(人生って何でしょうか?)訳:サベリオ金 大烈神父
  
 ・Life is an opportunity, benefit from it.「人生は機会です、善いことをして恵みを受けて下さい」
 ‘benefit’という単語は 「利益をもらう」 と辞書にありますが、これには条件があります。善いこと、施しとか何か善いことをしてから恵みを求めなさいという意味です。何の機会ですか? 恵みを頂く機会だとマザーテレサはおっしゃっているんです。
 ・Life is a beauty, admire it.「人生は美しいです、その美しさに感嘆して下さい」
 ‘admire’は感動して讃えるという意味があります。ただ感動しただけでなく感動したものを与えて下さったのであなたを讃美します、という意味です。それで感嘆という日本語にしてみました。彼女は讃える人生でした。難しい環境の中でいろんな犠牲をしながらいつも笑顔で神様を讃える、そういう生き方を見せた方です。
 ・Life is bliss, taste it.「人生は大喜びです、味わって下さい」
 ‘bliss’は小さな感覚的な喜びではなく計れないほどの神から頂いた喜びを表わしている単語です。神様が下さった大喜びを味あわなかったらもったいない、とおっしゃっています。
 ・Life is a dream, realize it.「人生は夢です、それを実現して下さい」
 皆様も私もそれぞれの夢を持っています。年齢に関係なく死ぬまで、神様に招かれるまで夢を果たすためにがんばらなければならない、とおっしゃっています。
 ・Life is a challenge, meet it.「人生は挑戦です、それに応じて下さい」 
 臆病にならないで怖がらないで、それは私にだけ与えられた挑戦であることを自覚しながら勇気を持って応じましょうと強調しています。
 ・Life is a duty, complete it.「人生は義務です、それを全うして下さい」 
 自由と義務は違うものだと私たちは思っていますよね。義務から離れれば自由だと思いますが、そうではないことを彼女はわかっていました。神が見せた自由とは何でも自分勝手にすることではなく、自ら縛られた自由です。十字架につけられた自由です。この自由についてマザーテレサも悟ったんじゃないかと思います。
 ・Life is a game, play it.「人生はゲームです、そのゲームに参加して下さい」 
 ゲームはおもしろいこと、おもしろくないゲームはやる気が起きないでしょう? 人生はゲームと言われる位、何とかすれば面白く生きることができるということを強調されています。
 ・Life is costly, care for it.「人生は値が張ります、大事にして下さい」 
 私たちが生きている人生は価値が高いものです。ただ過ぎていくだけのものではない。高価な物を買うにはお金が必要ですよね。そのお金を得るために一生懸命働かなければなりません。同じことだと思います。値が張るということは、人生の味をまことに味わうために私たちはがんばらなくてはならないということです。
 ・Life is wealth, keep it.「人生は豊かさです、保ち下さい」 
 この世をどのように見るかによって豊かさも見えますが、その反対も見えます。十分ある豊かさを私たちが分かち合うことができなくていろいろな格差がでていることを意識しましょう。
 ・Life is love, enjoy it.「人生は愛です、楽しんで下さい」 
 歌の中で愛といえば、犠牲を払うとか別れ、辛い気持というイメージで書いてありますが、愛は楽しむものです。愛のために苦労している人は方向を変えた方がいいんじゃないかと思います。楽しみましょう。
 ・Life is mystery, know it.「人生は神秘です、それを分かって下さい」 
 私たちは自分の人生さえ理解できません。これからどのように流れていくのか進んでいくのか分かりません。人生が神秘であると認められれば、神様に委ねやすくなるんじゃないでしょうか? 自分の考えで全部この世が動くのなら委ねる必要はないです。どうしても理解できないことばかりだから「神様、あなたが助けて下さらなかったら私はどこに行くかわかりません。導いて下さい」という祈りが必要だとおっしゃっています。
 ・Life is a promise, fulfill it.「人生は約束です、尽くして下さい」 
 何の約束ですか? 神様から皆様に与えられた使命について 「私は果たします」 と生まれながらに約束しました。死ぬまであなたに頂いた召命を、自分の生き方の一番良い道をしっかりと歩きます、という約束を果して下さい、ということではないかと思います。
 ・Life is sorrow, overcome it.「人生は悲しみです、乗り越えて下さい」 
 私たちには悲しむことがたくさんあります。病、別れ・・・等。悲しい心を毎日感じています。でもそれが全部ではありません。乗り越えて下さい。
 ・Life is a song, sing it.「人生は歌です、歌って下さい」 
 歌というのは歌われるから歌です。読んだり棚に置くだけでは歌ではないです。マザーテレサは人生を歌にたとえました。私たちは人生を歌いましょう。それが彼女の心だと思います。
 ・Life is a struggle, accept it.「人生は身もだえです、受け入れて下さい」
 ‘struggle’は戦い、争いと訳されますが、この単語の持っている意味は‘ものすごく辛くて暴れる位の痛み’なので、‘身もだえ’と訳してみました。たやすい人生はありません。辛い悲しいことがあってもそのことも讃える対象になれるということを考えて下さい。これがシスターテレサの思いではないでしょうか。
 ・Life is a tragedy, confront it.「人生は悲劇です、直面して下さい」 
 悲劇にぶつかるかもしれません、悲劇で終るかもしれません。しかし、避けないで逃げないで直面して下さい、という言葉ではないでしょうか。
 ・Life is an adventure, dare it.「人生は冒険です、勇気を持ってぶつけて下さい」 
 冒険とは動かなければなりませんよね。私には尊敬するフランシスコ会の司祭がいました。その方は60歳を過ぎてからアフリカに行って宣教しました。それから75歳位の時でしょうか、ロシアに宣教に行かれ、大きな病気にかかり今年亡くなりました。皆様ご存知でしょう? 根本昭雄神父様ですね。
 私は渋川教会にいた時初めて根本神父様に会いました。神父様は休暇で日本に帰国されている時、親しい方々に会いに渋川教会にいらっしゃったんです。私は一緒に食事をしながらその人柄にはまってしまい、すごい方だと感動しました。自分にはとてもできないと思いました。もっと感激したのは、その後1週間から1か月に1度くらいずつEメールを下さったのですが、自分の大変なことは何もおっしゃらず、若い司祭である私を励ますことばかり書いてありました。私は40歳を過ぎて頼まれて日本に来ましたが、この方は60を過ぎてアフリカに行ったのです。私は自分がアフリカに行って欲しいと言われたらどうだろう? と自問しました。又80近くで、これから神様の所に行く準備をしようとした時、ロシアに行く挑戦する心が生じるだろうか? 神様がやってくださらなければ私にはできないと思いました。マザーテレサも自分の人生を奉献したのではないでしょうか。
 ・Life is luck, make it.「人生は幸運です、自分のものにして下さい」 
 宝くじが当たったら運がいいと言うかもしれませんが、それはまちがいです。宝くじに当たった人々の中で70%以上の人が前より悪くなっているという統計があります。ただで入ったものはしやすく出て行ってしまう。それだけでなく前からあるものまで一緒に出て行ってしまうのです。ラッキーという言葉を使うとすれば自分が作ろうとするもののためにがんばる心です。それに私達は皆ラッキーですよ、ミサが捧げられるのですから。
 ・Life is too precious, do not destroy it.「人生はあまりにも貴重なものです、破壊しないで下さい」
 一番大事なことではないかと思います。厳密に言えば自分のものは何ひとつありません。すべて神様のもの、神が貸して下さったもの、私達は返さなければならないものです。自分勝手にしないで下さい。自殺する人が増えています。自分を軽蔑する、軽くする人が結構います。それはいけません。私達は神様から頂いた貴重な命です。自分を大事にして下さい。
 ・Life is life, fight for it! 「人生は人生です、それのために戦って下さい」 
 難しいことですね。結局人生は戦いでしょう。自分に与えられた人生を全うするための自分との戦いです。それに負けてはいけないと思います。ある人はこの人生はむなしいものと思っています。又できるだけ感覚的に楽しめるものだけを求める人がいます。しかし彼女が見せたのは人生は甘いも、苦いも、早いも、遅いもすべてのものを混ぜてひとつの人生を作っていくことでした。ありのままを受け入れた、これがマザーテレサの心だと思います。
 
 最後に今日の福音(マタイ16・13-20)でイエス様がペトロという岩の上に教会を建てると言われました。岩の上に建てるのはしやすいことですか? 土を掘って建てるのが普通でしょう。岩の上に建てるというのはこの教会は人間が建てるのではなく神が建てて下さったもの。そのことを意識して下さい。私達は自分で来たのではなく神の招きに応じてきているのです。
                                          ありがとうございました。
              

                      印刷用ページ(PDF PDF文書) 
このページの先頭へ                                              週日の説教    金 大烈 神父   2008年8月22日(金)
    
             《心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、愛しなさい》
 今日の福音(マタイ22・34-40)では、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、神様を愛しなさい」 という第一の掟があります。これはどういう意味でしょうか? 皆様は神様を愛していますね。そしたら、どのように愛していますか。心を尽くして神様を愛していますか? 精神を尽くして神様を愛していますか? 思いを尽くして神様を愛していますか? もし、これらに対して自信のある答えが出来るならば、私たちは今死んでも天国は私たちのものになります。
 私たちはいつも 「神様を愛しています」 と口にしてはいます。しかし、神様が私たちにくださった第一の掟では〝心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして″愛しなさい、となっています。これは、神様のことを一番大切なものとして考えなさい、ということです。選択をするものとしてではなく、それ以前のものとして、また何よりも優先的なもの、身についたものとして、何があっても、何に対応していても、どんな不安に陥っていても、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして神様を愛しなさいというものです。そのように考えてみると、ほとんどの信者はたぶんこの掟に対して自信をもって 「そのようにしています」 と話すことはできないのではないかと思います。
 イエス様は、旧約聖書全体に流れている掟を簡単に二つに整えてくださいました。
 一つは、神様に対する愛、二つ目は隣人に対する愛です。しかし第一の掟である神様への愛をよく考えてみると、本当に難しいです。簡単に神様を愛しなさいくらいの内容ではありません。しかし私たちは、それを掟として受け入れたら実践のために決断をしなければならいないことを意識しなければなりません。
 二つ目の話ですが、第一の掟と第二の掟は分けられて違う雰囲気がありますが、実際は違う名前の同じことです。神様を正しく愛することになれば、第二の掟は自然にできてきます。また隣人を自分の命のように愛することができれば、そこには必ず神様がいます。
 皆様の信仰はどのくらいの深さがあるのでしょうか? 自分の信仰は深いほうなのか、浅いほうなのか気になることがありますね。その時、この二つの点を考えてみてください。もし自分がかかわっている人を傷つけたり、逆に人に傷ついたりしたら、その人は神様を愛しているとはいえません。人間に傷ついていますが神様を愛しています、というのはうそです。それは、私たちが陥りやすい罠です。神様を愛すれば人間も愛さなければならないのです。人間関係には傷ついているけれど、私は毎日祈っているからそれでよい、というのでは駄目なのです。
 自分が神様に対してどのくらいの大きさ、広さの愛を持っているかを見るには、第二の掟について振り返ってみる必要があります。いつも傷ついていて、いつも不安で、いつも文句ばかりで、いつも否定的にこの世の中を見ることになってしまうと、その人の中には絶対に神様に対する愛は生まれません。
 今日の福音(マタイ22・34-40)で、神様の掟は二つありますと簡単にいわれていますが、本当はとても難しいことです。私たちが反省をする基準として、第一の掟を選んでも第二の掟を選んでも同じように通じます。一つが崩れてしまったら、もう一つも崩れます。これは同時に動くものなのです。このように、私たちは少しずつ自分を作って行くのです。完璧に二つの掟を守ることは出来ないかも知れません。ですから、生きる意味も生じるのではないでしょうか。
 信仰を振り返ってみましょう。なぜ福音的な喜びを持つことができないのか。そういう重荷があるとき、この二つの掟についてよく考えてみましょう。どちらかに必ず穴が開いているはずです。その穴によって喜びを持てない自分が見えるはずです。
 今日の福音(マタイ22・34-40)を通して私たちは死ぬまで振り返り、いつも喜びに満たされ、いつも希望を持たなければならないと思います。本当に難しいことです。しかし、そのようになりなさいとおっしゃっているイエス様のみ心を考えながら一生懸命に励みましょう。
                                          ありがとうございました。
              

                      印刷用ページ(PDF PDF文書) 
このページの先頭へ                                              週日の説教    金 大烈 神父   2008年8月21日(木)
    
               《イエス様はいつも招いてくださっています》
 今日の福音(マタイ22・1-14)の内容は、すぐに分かると思います。
 王が王子の結婚式のためにいろいろな人々を招いています。その招かれた人々の中には、招きを無視した人もいるし、自分の仕事のために行けなかった人もいるし、使いに来た家来を殺してしまった人もいます。それで、腹を立てた王は、軍隊を送ってその人々を滅ぼしてしまいました。そして準備された宴会のために、道にいる全ての人を連れて来て席を埋めるようにという命令を家来に出します。その中の一人だけが礼服を着ていませんでした。そこで、追い出すように、そうすれば暗闇の中で歯ぎしりをするだろうと命令をする、という物語です。
 では、最初に招かれた人々は誰でしょうか? イエス様が生まれた時代、ヤーウェの神様を信じていたのはイスラエル人だけでした。他の民族は、自然そのものや獣などいろいろなものを神として信じていました。イスラエル人だけが唯一の神への信仰を持っていました。でもそのイスラエル人も、口ではいつも「神様、神様」と言いながら、神様のみ旨と全然違うことをしていました。その結果、たくさんの預言者を殺してしまいました。選ばれた民族としての意識は強かったのですが、選ばれたものとしての振る舞いが全然出来なかった民族でした。正しいことを口にする人をいつも殺してしまう、これがイスラエル人の旧約の歴史です。そういうことを見て、イエス様の心はとてもつらかったでしょう。使いを殺したという話は、預言者達が殺されたり、洗礼者ヨハネが殺されたことをつらい気持ちで訴えているイエス様のたとえです。
 その後、どういう人が選ばれましたか? その時代は、異邦人といえばイスラエル人の意識の中では係わってはいけない不正な存在でした。人間として認められないものでした。隣の民族に対してもイスラエル人はとても冷たかったのです。それは、自分達に選ばれた民族としての強い意識がありすぎて他の民族を人間として認めなかったからです。そしてイエス様がおっしゃったのはヤーウェの神様に対する信仰はイスラエル民族から離れて他のいろいろな国に広まるだろう、ということです。それは今の時代を実際に見たら、その通りになったのが分かります。結局、全世界がイエス様を見て神様を分かるようになりました。その中で、一人だけ礼服を着ていなかったのは、これはイエス様のみ心をあらわす表現ではないかと思います。イエス様はできるだけたくさんの人々を抱きしめたいと思っています。しかし、この世の中には必ずそれを無視してしまう人々が存在します。その人々を礼服を着ていない一人で表現したのではないかと思います。では、礼服というのは何でしょうか? それは、イスラエル人が犯した罪を同じように犯すことです。
 私たち信者は日曜日教会に通います。でも、気分がのれば教会に行くし、他に楽しいことがあればそちらに行く、カトリック信者ですと言いながらも飾りのような信者生活をする人も結構います。
 また、ご聖体に対しても自分が神様に願う気持ちでいただかない人が結構います。いろいろな神様がいる中で、おばけと仏様とマリア様とキリストとほかのいろいろなものを一緒におがむような形をする人もいます。そういう人々はイエス様のことを知らなかったほうがよかったのではないかと思います。いつも言っていますね。分からなくて犯す罪は赦される、分かっているのにわざわざ犯す罪は赦されない、と。これは私たちカトリックの信仰です。ある意味で、洗礼を受けることは決断をすることです。しかし信仰に対してあまりにも気軽く考えている人が多すぎるのではないかと思います。そういう人々を見たら、なぜ自分の選んだ宝物を宝物と思わないのか。それがとてもつらい気持ちになります。
 今日の福音(マタイ22・1-14)を通して、私たち自身も振り返ってみましょう。信仰の豊かさをまだ味あわない人々、「神様を信じます」 と言いながらも拒んでいる人々のために祈りが必要ではないかと思います。教会というのは、一人ではなれません。ともに生きるから教会です。ですから連帯責任感をいつも意識しなければなりません。
 私はよく 「イエス様の呼びかけ」 という言葉を使いますが、今日の福音(マタイ22・1-14)を読んで感じたのは、呼びかけより招きではないかということです。いつも招待してくださるイエス様のみ心です。招待と言えば、何か、よいことに招かれる気持ちになります。悪いことに人を招待はしません。あなたによいものを与えますよ、あなたに喜びを与えますよ、という意味を持っているではありませんか。呼びかけ、といえば嫌なことをさせられる気持ちにもなりますから、やはりイエス様は今日のたとえのようにいつも私たちを招いてくださっていると思いました。
                                          ありがとうございました。
              

                      印刷用ページ(PDF PDF文書) 
このページの先頭へ                                              週日の説教    金 大烈 神父   2008年8月19日(火)
    
                  《お金に縛られず、幸せに生きましょう》
 お金をもうけるのは難しいでしょうか、易しいでしょうか?
 お金があれば便利なことがたくさんありますね。しかし、今日の時代を生きている私たちにはお金がお金を儲けてくれるのが分かっています。今は、貧しい人がいくら頑張っても自分の目標とするところまでお金をもうけるのは難しい時代です。お金が多くなればなるほどこういう格差は出てきます。アフリカのような貧しい国へ行けば、ほとんどが金持ちではない立場ですから、相対的には金持ちとそうでない人との格差はあまり感じられません。しかし、お金のある国の場合は、お金のある人は、天文学的な考えられないほどのお金を持っているので、相対的な貧しさを感じます。
 今日の福音(マタイ19・23-30)でイエス様は、「金持ちが天国へ入るのは、ラクダが針の穴を通るより難しい」 とおっしゃいました。昔、旧約のイスラエルの人たちには、金持ちと言えば尊敬の対象でした。そしてそれは、よい生き方をしたために神様からいただく〝福″であると思われていました。彼らには自分が積んだ富について、神様が助けてくださり許してくださったのでこのようになった、という感謝の賛歌がいつも必ずありました。しかし、この時代は、神様が助けてくださってこのようになった、という気持ちより自分が頑張ってきたのでこのようになったと考える人がほとんどです。神様に感謝しながら自分の富を見ることができれば、自分がもうけた富についてどのように分かち合えば社会に返すことができるかすぐに分かります。しかし、自分の力によってもうけたお金だと思うものは絶対にそれを手放さずに握ってお墓に入ります。
 善い金持ちは分かち合うことができて、幸せを感じていましたが、望ましくない金持ちはいつも奪われないように緊張しながら周りを見張らなければならないです。大企業の場合もいつも緊張しなければなりません。そして一番お金持ちだといわれるアメリカの場合も日本のバブルよりももっと深刻な状態に陥っています。アメリカは、いろいろな経済的な問題があり、まだ回復はできないだろうと経済学者たちは言っています。
 では、私たちは富をどのように見ればよいのでしょうか? 富は必要なものです。できるだけたくさんの人たちがみんな例外なしに富を持って豊かな生活をすることが神様のみ旨です。しかし、人間のおろかさによってそれができなくなってしまったのです。以前、福音の中で5000人以上の人々を食べさせた奇跡についてお話ししました。私たちが分かち合うことをできなければ、〝富″は〝富″としてその光を輝かせることは絶対にできません。分かち合うことによって私たちは富の恵みを感じながら生きることができるのではないかと思います。
 今日の福音(マタイ19・23-30)でイエス様がおっしゃったことは、金持ちが悪いということではありません。またこれは、実際にお金を持っている人だけの話でもありません。お金のない人にも、お金がないのでお金をもうけようとしている私たちにもあてはまる話しです。私たちはなぜお金をもうけなければならないのか、考えましょう。お金というものは私たちにとってどういう意味があるのかをはっきり分かってほしいです。そういう心でなければ私たちはお金に縛られてお金の奴隷になってしまいます。貧しくても心は幸せに生きてほしいです。たくさんの富を握って、いつも不幸な日々を過ごす人は、本当の意味では金持ちではありません。貧乏より貧しい人です。イエス様がおっしゃったのは、「物があるところには必ず心がある」という言葉とつながります。私たちは、「何のために」「何を求めるのか」、求めたものを「何のために使うのか」、ともに考える知恵によってその富の意味が生かされると思います。
 皆様、今日の福音(マタイ19・23-30)を通して、皆様は幸せです。あふれるほどたくさんのお金は持っていなくても、心配してあげる人もいるし、懐かしがる相手もいるし、やりたいこともあるし、分かち合える相手もいます。皆様は幸せです。
 こういう心を保ちながら私たちはお金に対して考えることが必要です。お金は私たちのために作られたものです。お金のために私たちが作られたわけではありません。物によって私たちの心が縛られないように。いつも自由になるという心の持ち方が必要ではないかと思います。

                                          ありがとうございました。
              

                      印刷用ページ(PDF PDF文書) 
このページの先頭へ                                    年間第20主日 金 大烈 神父   2008年8月17日(日)
    
                         《偉大な母性》
 おはようございます。
 お母さん達に質問します。「子供さんたちの為に神様に願いたいことがある方は、手を挙げて頂きます」。やはりいらっしゃいますね。手を挙げてくださったお母さん方にもう一度質問します。「願うことの中で、これは必ずかなえられて欲しい、成し遂げられて欲しいと懇切に願うことはありますか?」 さすが、ありますよね。これが過去、現在、未来そして全世界のお母さんの心です。このように子供に対して持っている母の心は変わらないことだと思います。
 そうしたら、先ず、大事なことはその子供達の事を願う心が正しい事かどうかを神様の前で識別することだと思います。そして、子供に対しての願いが正しいと確信が出来たら、絶え間なく祈ることになります。
 3回目の質問です。「子供達の願いの為に、懇切に絶え間なく祈っています」 という方は手を挙げてください。すばらしい! ありがとうございます。そうです、願う事で終わってしまったらそれは何の意味もありません。犬も本能的に自分の子供の為に命を分けます。動物と人間と逢う所は、必ず自分が感じている正しさを実践しようと自分を投げる事です。自分を投げる事を避けながら、子供の為に一生懸命願う事はありえない事と思います。
 今日の福音(マタイ15・21-28)ではイエス様は今までと違った反応の姿を見せています。悪霊に取りつ
かれている人がイエス様に助けを求める場合、いつも面倒がらないで暖かいやさしい姿を見せ、そしてその場で悪霊を追い出してくださるのが今までの姿でした。しかし今日はいつもと違った反応を見せて下さいます。あるカナンの女性が悪霊に取りつかれて悩んでいる娘の為に懇切に願っています。「ダビデの子よ、私を憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」。 強く強く願っています。しかしイエス様は意外に口を閉じます。何も見ずにただ歩きます。しかしこの女性があまりにもうるさく、叫びながらついて来るので、我慢できなくなった弟子達が 「先生、なんとかして下さい。この女性はうるさく、ずっと付いてきます」 と頼むと、イエス様は今までと全然逢う言い方をします。「私は、イスラエルの家の失われた羊のところしか遣わされていない」 と断りました。しかし、カナンの女性は諦めずにしつこく願い続けます。「主よ、どうか、お助けください」。そうすると、イエス様は 「子供のパンを犬にあげてはいけない」 とまたご自分らしくない意外の返事を見せました。しかし、このように侮辱的な言葉を聞いても女性は 「食卓から落ちた食べ物は子犬もいただけるのではないでしょうか?」 と返事します。その話を聞いてイエス様は感嘆します。「立派な信仰だ。あなたの願いどおりになるように」 と。
 この物語について、皆様はどう思われますか。もしここでイエス様が 「人が食べるものを犬にはあげない」 と話されたらどうします? 皆様の事を犬と例えられたら、どのような気持ちになるんでしょうか? 死ぬほど腹が立つことになるんじゃないですか? 今まで信じて来たイエス様にこのようにありえないことを言われたら、それは衝撃であり、ものすごい悲しみになりますよね。
 さあ、整えてみましょうか.私たちがこの女性に見習うことは何でしょうか。まずカナンの女性が見せた力ですね。自分が願う心、望む心の為に粘り強く委ねることです。めんどくさいと言われるくらい自分を捨てて自分の子供の為に自分を投げ出す姿だと思います。 
 二つ目はどのように侮辱されても、「私はあなたが娘を癒してくださる事を信じています。確信しています」 ということに全てをかけて、「私は犬になっても構いません。自分の娘を癒してくださるのなら、犬よりもっと悪い物にもなれます」 という母性でしょう。結局へりくだる信仰、謙遜な信仰です。謙遜とだんだん離れていくのが人間の一つの弱さです。信仰も同じです。私たちは一生懸命教会や奉仕の生活をしながら、自分が知らないうちにだんだん傲慢に囲まれてしまいます。「あの人はなんでそういう姿を見せるのだろう。あの人はなんでそういうやり方を見せるのだろう」 としながら、自分がちゃんとできているような姿を見せるのです。
 もう一度振り返ってみましょう.私たちは死ぬまでこの女性が見せてくれた、へりくだる心を持ってイエス様に付いていかなければならないのです。
 私たちが全然理解できない事をいただいてもそこには御旨があります。今日の福音にこんな言葉があります。「ごもっともです」。 このような心が私たちに許されていれば、懇切に強く願っている子供の為の願いもかなえられ、成し遂げられると信じます。
                                          ありがとうございました。
              

                      印刷用ページ(PDF PDF文書) 
このページの先頭へ                          聖母の被昇天の祝日    金 大烈 神父   2008年8月15日(金)
    
                         《感動は幸せの種》
  こんばんは。今日は一番暑い日でした。皆様も大変だったと思いますが、今晩私達は〝聖母の被昇天の祝日″を迎えています。
 子供たちが赤ちゃんだった時を思い出して下さい。小さな子供は転んだり、倒れたりすると泣きわめきながら 「おかあちゃん!」、「ママ!」 と母親の助けを求めます。そして小学校に入り、良い成績が取れた時、その良い結果を真っ先に知らせたいのはやはり母ですよね。私達もマリア様をその様に思っています。子供が転び、血がにじむ自分の膝を見て、その怖さの中で母親に助けを求めるそのイメージが私達には何よりも必要です。そして何かで自分が褒められる時、その姿を誰よりも喜んで下さるこの〝お母さん(マリア様)″を考えて下さい。
 しかし、私たちの中には自分のお腹を痛めて産んでくれた母親に否定的な記憶を持っている方もいらっしゃるかも知れません。あらゆる母親が皆立派ではないのです。何故私の母はこの様な姿を見せるのかと苦しみ、そしてその母親から受けた幼年期の傷をお持ちの方もいると思います。その方は逆に子供の頃から 「この様な母親が一番だ」 と理想的に思った、その母親に対してのイメージを持っているのが聖母マリア様だと思って下さい。そうすればこの母であるマリア様が、私達にとってどの様な意味であるかすぐに感じられると思います。
  「マリア様は神様ですか?」 と聞かれたら、「いいえ、神様ではありません。しかし神様のお母さんです」と答えて下さい。私達はマリア様を神様として拝んでいるのではありません。彼女に駆け寄り、自分の恥も痛みも全てを 「お母さん、私はどうすればいい?」 と自分のありのままをさらけ出せる、そういう存在である〝母″です。
 イエス様は十字架上で愛する弟子に 「これからは、あなたのお母さんです」 とおっしゃいました。最後の遺言とし、私達に残した言葉です。その時から私達はマリア様を〝お母さん″と呼びます。お母さんという存在はすべての人間にとって故郷ではありませんか。私達は心の一番のふるさとである〝完璧な母親″を持っていることにプライドを持ちましょう。そして自分の弱さも恥ずかしさも全てをあらわにして、その取り次ぎを願いましょう。この方は〝私の母です″〝皆様の母です″〝私達の母です″この様な心がきちんと身に付けば、今日の祝い日の聖母マリア様に捧げる一番大きい捧げ物になるではないかと思います。さあ、お母さんの話はここまでにしましょう。
 話が変わりますが、人間だけ感じられる幸せがいくつかあります。感動するという言葉があります。〝感動する″これは人間だけに与えられた幸せです。感動する為には何が必要ですか? 何によって私達は感動を得るのでしょうか。例えば、自分自身の中に存在する〝あるもの″が出せないでいる時、ある人がそれを勇気をもって出させてくれた時に感動します。男性はプライドで生き、女性は感動で生きるとも言われています。もしこの中で自分の奥さんとの関わりがうまくいっていない方がいらっしゃったら、何とか感動させようと頑張ってみて下さい。女性は感動を受けると自分の命をも捧げられる程の力を持っているそうです。
 今日、聖母の被昇天の祝日に心を決めてみましょう。私達がお互いに感動を得られるその様な存在になれば、私達は互いに幸せになるのではないでしょうか。
 今日は私が〝感動″を受けた何人かを紹介したいと思います。祭壇の十字架の下にご聖櫃となる器があります。私がこの教会に始めて来た時、聖堂に入り、イエス様に挨拶しようとしましたが、ご聖櫃が見えなくてどちらにお辞儀をするか迷いました。小聖堂にご聖櫃はありました。聖堂に入ったらまずご聖櫃にお辞儀をするのが正しいのですが、それが出来ない事にとても不満を持っていました。
 祈られる〝一番中心″にイエス様のご聖体が置かれなければならないのに、何故そうなっていないのか。私は祭壇の後ろにご聖櫃を置きたいという希望を評議会、委員会の中で話し合って来ました。そしてその中で何人かの方が頑張って下さいました。その一人はルドビコ 相沢 収さん。相沢さんはこの器を焼いて下さいました。そしてその扉にきれいなぶどうや十字架の模様を付けて下さったマリア・テレジア 井上好美さん。本当に有り難うございました。相沢さんはこれを焼き上げる為に何度も失敗をしました。祈りながら祈りの内に作りましたが、もっと自分を清める為にゆるしの秘蹟も受けました。そして更に祈る気持ちで挑戦を続けて出来上がったのです。9ケ月かかりました。12回目に成功したそうです。〝意味″があるでしょう?
 今日の第一の朗読、ヨハネの黙示の中、「一人の女が身に太陽をまとい、月を足の下にし、頭には12の星の冠をかぶっていた」 とあります。12回。私は本当に感動しました。私達が心を込めてこの位頑張れば出来ないものは無いのだという事を確信しました。本当に素晴らしい物になりました。この場を借りて感謝致します。そして、井上さんも忙しい中、何度も私の元を訪れ、この絵がいいか、あの絵がいいかと試行錯誤を重ねました。そして井上さんのお義母さんも、頑張っているお嫁さんの為に一生懸命祈られました。このお二人が祈られた事を考えても、私達は祈りがあれば何でも出来るという体験でもありました。本当に感謝致します。
 そして、ご聖櫃だけではなく、それを置く台も皆様気に入って頂けましたか? 営繕の係りの方々がその色についても何度も相談しながら決めました。皆で話し合えばこんなに良い物が出来るのだと改めて感じました。感謝致します。
 そして、今度は皆様を褒めたいと思います。今、皆様の前に9冊の聖書が捧げられました。この聖書はご存じの様に色々な国の人が心を込めて、自分に与えられた箇所を母国語で書いたものを本にした物です。後でピエタの聖母の前にきれいに陳列しますので、ご自分が書かれた箇所をご覧になって下さい。何か違う気持ちが沸いて来ると思います。この為に頑張って下さった方がいらっしゃいました。多分、書写の期日等で地区長にうるさく言ったりしてイヤな顔をされた事もあったでしょう。しかし自分の役目をきちんと果たしてくれました。感謝致します。フランシスカ 藤木美津貴さん。ありがとうございました。
 そして聖書を書いた私達の為にも拍手をお願いします。多分この聖堂が、太田教会という名が続く限り、この聖書もとこしえに大切に保存され続けて行くでしょう。それを作った一人として私達はこれを誇りに思い、私達の宝物にしてもよいのではないでしょうか。皆様、本当に感謝致します。
       
                                          ありがとうございました。
              

                      印刷用ページ(PDF PDF文書) 
このページの先頭へ        週日の説教・聖マキシミリアノ・マリア・コルベ司祭殉教者    金 大烈 神父   2008年8月14日(木)
    
                  《私たちはいつも赦されています》
  マキシミリアノ・マリア・コルベについてご存知ですか? アウシュビッツで身代わりに死刑となった方ですね。誰かのために死ぬことは、司祭として一番大きい役割だと思います。そういう状況に陥ったとき、葛藤が生じると思うのですが、もしそれを上手く克服できれば一番大きい恵みになるのではないかと思います。
 コルベ司祭は、マリア様をとても愛した方です。そして、子供のころにマリア様に出会うという体験をしています。成人してから、この体験は夢の中でのものなのか霊的なものなのか、自分でもはっきりとは分からないと書き記しています。その体験の中でマリア様が現れ、いろいろな色のついた花か玉を見せたそうです。そして、その中で好きなものを選びなさいと言われ、選んだものは、白いものと赤いものでした。白が意味するのは、〝純潔″、すなわち司祭となることです。赤が意味するのは、〝殉教″です。そういう子供のときの体験をいつも意識していたので、マリア様に選ばれ、約束したことを必ず果たそうとする無意識があったのではないかと思います。だから、アウシュビッツで死刑にされる他の人の〝身代わり″となるときにも決断がしやすかったのではないかと思います。
 マキシミリアノ・マリア・コルベを通して皆様と分かち合いたいことが一つあります。私が日本のカトリック教会の中で一番弱いと思うことの一つは、殉教聖人をあまり大切にしないことです。日本でも600年前にカトリックの教えが入ってきて、たくさんの方々が殉教しました。しかし、日本の教会自体はその殉教者を尊敬するいろいろな叫びにあまり熱心ではありません。殉教の聖人がいなければ、教会は絶対に建てられません。殉教ということは、自分を捨てることです。一番基本的なことを強調しないことで、どのような発展を願うのかを示すことです。
 先日、司祭たちの集まりがありました。テーマは殉教者についてでした。いろいろな国の司祭たちが自分の国の殉教者について熱心に語りました。それを見ている日本の司祭たちからも、なぜ私たちは殉教者について力を入れて来なかったのか、という反省の意見が出されました。そのとき私が強く感じたのは、殉教聖人を軽んじ、無視しながら教会がきちんと活動できるはずはない、ということです。日本の素晴らしい殉教の聖人が子孫達に大切にされなかったのは、私たちの間違いではないかと思います。そして、このような共同体の生活の中で、もし、私たちにいろいろな形の殉教の精神がなかったら、どういう愛の実践ができるというのでしょうか?殉教という言葉は誰かのために死ぬことです。こういう基本的な心が備えられていなければ他のことも無理なのではないかと思います。
 とにかく日本にも世界にもカトリックの中には素晴らしい生き方、死に方をされた聖人がたくさんいらっしゃいます。その方たちの模範に習おうとすることが必要ではないかと思います。
 さて、今日の福音(マタイ18・21~19・1)では使徒ペトロがイエス様のところに近づいて聞いていますね。「友達が自分に対して罪を犯したら、何回許せばよいでしょうか、7回くらいでよいでしょうか」 と。返事は、「7回どころか、7回の70倍でも許しなさい」 でした。そして、たとえとしてされた話は悪い家来の話です。たくさんのお金を借金していたのに憐れみによって救われ、借金は帳消しとなります。ところが、救われた家来は、自分からもっと少ない額のお金を借りていた仲間に対してものすごく厳しい行いをします。その姿を見て、家来の借金を帳消しにした王様が、「不届きものだ、私が哀れみによって赦したのにお前はなぜ許さなかったのか」、とひどく叱ります。
 この家来はよい人ですか? それとも悪い人ですか? ものすごく悪い人ですよね。仲間達も心を痛めて、王様に全てを告げたくらい常識に外れた悪いことをしています。この話を読んだら誰も家来をよい人だと思う人はいないでしょう。ではなぜイエス様は、誰でもわかるこの話をたとえとしておっしゃったのでしょうか。王様を神様としましょう。私たちは神様に、赦しの秘跡やそのほかのいろいろなことによってたくさん赦されています。自分の間違えに対する誰よりも深い憐れみによって私たちは毎瞬間赦されています。これは信仰的に見てみると、当たり前に感じられることです。もう、はかりきれないくらい赦しをいただいた私たちが、他の人に対しては、憎しみとかいろいろな否定的な感情を保ったまま生きるならば、この家来の話しは、私たちに対するたとえとなります。それでも、いつも赦すことは難しいです。腹を立てたものを赦そうとしても無理です。誰でも同じ立場だと思います。しかし、赦さなければなりません。それがイエス様のみ言葉です。その時、赦しや救いのためにこのように考えてみましょう。【神様も今の私を赦してくださるのに、私は何の資格で人を赦せないのか。結局赦すことができなかったら損になるのは自分ではないか。自分が一番つらくなるのではないか】。 このような心の練習が私たちには必要ではないかと思います。私たちが他の人を赦すために一番必要なことは、まずイエス様に赦されていることをよく悟ることです。その悟りが身につけば、たぶん何とか憎しみから解放されやすくなるのではないかと思います。
 このミサの中で、もし私が気づかなくても、私を憎んでいる人がいるならば、その人を守ってくださいと祈りましょう。そしてもし私が赦さなければならない人がいるならば、私の心も赦して、その人を赦せる恵みをお与えください、という気持ちでミサを捧げましょう。
                                          ありがとうございました。
              

                      印刷用ページ(PDF PDF文書) 
このページの先頭へ                                              週日の説教    金 大烈 神父   2008年8月12日(火)
    
                 《子供のような心で神さまにゆだねましょう》
 今日の福音(マタイ18・1-5、10、12-14)では、「子供のようにならないと天の国に入れない」 とあります。新約聖書を読むと何度も出てくる言葉です。これはどういう意味でしょうか? 「子供のようになる」とはどういうことなのか、今まで何度も説明をしましたね。一言で「子供のように」 といっても、子供も一人一人みんな違います。悪知恵が発達しておとなより悪い考え方をする子もいます。いつもうるさいくらい泣いてばかりの子もいます。一人一人違った性格を持って生まれて来ています。
 しかしイエス様は、このような〝子供″のようにならないと天の国には入れないとおっしゃいます。私たちは、子供からどのようなことを習わなくてはならないのでしょうか?
 あらゆる子供の共通点は、親が、特に母親がいないと不安になることです。赤ちゃんを見てください。目が覚めたときに自分が母親に抱きしめられていないことに気づいたら泣いてしまいます。イエス様がおっしゃりたかったのは、赤ちゃんが母親を考えるように、私たちは神様のことを考えなくてはいけない、ということです。私たちは、神様、イエス様に対して本当に親を思うような気持ちを持っているでしょうか?
 結局一番素晴らしい心はゆだねる心です。ゆだねることは相手を信じなければできないことです。もし人生の中にイエス様がいなかったら、もしイエス様に話しかけることができなかったら、皆様は不安な気持ちになると思います。
 ではここで、性格を診断する質問をしてみましょう。1番、月に1回か2か月に1回くらい、赦しの秘跡を受けなかったら不安に陥る人はいますか? 2番、日曜日のミサに与れなかったらつらい気持ちになる人はいますか?3番、助けを求める人に自分の手を伸ばさなかったら辛い気持ちになるんですか。(1番は手をあげる人が少なく、2、3番はほとんどの人が手をあげました)  
 質問のうち3分の2については、正しい信仰をもっていらっしゃいますね。でも、1番の 「赦しの秘跡を受けないこと」 については、なぜ気にならないのでしょうか?それは、正しく教えてもらわなかったからです。
 秘跡は、7つありますね。秘跡というのは、見えない神様のこと、さわれない神様のことをキリストの力によって、人が見えるように、さわれるようにしたものです。では、7つの秘跡の中で一番価値があるのはどれでしょうか?私たちは日曜日にミサに与って、ご聖体をいただけなかったら不安に陥りますね。それなのに、罪があるまま許しの秘跡を受けないでご聖体をいただくことは平気ですね。しかし中には、自分に罪があるとき、赦しの秘跡を受けなければ、「もし死ぬとしてもイエス様をいただくことはできない」 という人もいます。そして、誰が見ても感動的な姿でイエス様をいただきます。
 私たちは、秘跡についてきちんと身についていないのではないかと思います。皆様は、3つの質問のうち2つは正しく答えられました。それは可能性があることだと思います。
 とにかく私たちは、「イエス様がいなかったら、神様の存在をこばむことになったら、死にます」 という気持ちを持って信仰生活をしていかなければならないと思います。
                                          ありがとうございました。
              

                      印刷用ページ(PDF PDF文書) 
このページの先頭へ                                   年間第19主日 金 大烈 神父   2008年8月10日(日)
    
            《からし種一粒の信仰があれば、山は乗り越えられる》
  おはようございます。今日の福音をもう一度見てみましょう。
  イエス様は弟子たちを船に乗せ向こう岸へ先に行かせ、御自分は山で祈っていました。夜が明ける頃、イエス様は弟子たちのいる船のところへ水の上を歩いて行かれました。それを見た弟子たちは 「幽霊だ」と言って怖がりました。その時イエス様は何と言われましたか? 「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」 と言われましたね。するとペトロは 「主よ、私も水の上を歩きたいです」 と言いました。イエス様が「来なさい」 と言われたので、ペトロは水の上を歩きはじめました。でも途中で怖くなり沈みかけてしまいました。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」というイエス様の言葉でした。                    
 今日、皆様と分かち合いたいのは、二つの言葉についてです。
 一つは今日の福音をもっと深く理解しやすくする為に他の箇所のことについてです。マタイの福音17章20節に 「もし、あなたたちに一粒のからし種ほどの信仰があれば、この山に向かって 『ここからあそこに移れ』 と言えば、山は移るだろう」 という皆様よくご存知の個所がありますが、どのように理解されているのでしょうか?
 「からし種一粒ぐらいの信仰で山が移される」 どういうことでしょうか? これは可能なことですか? この頃、蒸し暑い日々が続いていますが、もし、私たちが熱心に祈って、〝この教会がどこかもっと良い所、涼しい所に移されるように″と願ったら、そのようになるんでしょうか? 今シスター方もミサに与っていらっしゃいます。一生を祈りによって送っている生き方だと思いますが、祈っても移されない山を見て、「信仰の薄い者よ」 と言えるのでしょうか? 私たちはからし種一粒ぐらいの信仰をも持っていないのでしょうか?
  聖書で言う〝山″とは移すことのできる山ではなくて、〝乗り越えられる山″のことです。困難、不安、恐怖、憎しみ等の山のことです。この山を乗り越えなければならない。〝移れ″というのは「乗り越えさせて下さい」 ということです。
 次は 「恐れることはない」 というイエス様の言葉について考えて見ましょう。この世の中に怖いもの、恐れるものはない、と言っているのではありません。私たちは生きている間、死ぬまで恐れるものは沢山あります。不安や病、老いという恐れるものに囲まれています。しかし、あらゆる力の源であるイエス様、すべての源である御父がいるのに、大きなバックグランドのイエス様がいるのに、何を怖がっているのでしょうか? すべてを委ね、任せて下さい。
 「どんなに登り難い山があっても、からし種一粒程の信仰があれば乗り越えられる」 というイエス様の言葉は、私の前に不安や落ち込ませるようなこと、どのような難しさがあってもイエス様が守って下さるということです。信じましょう。一粒のからし種ほどの信仰があれば、私たちは自分の前にそびえている山がなくなるようにとは祈りません。乗り越える力を下さいという祈りができれば私たちはしっかりと乗り越えられると思います。これが信仰じゃないでしょうか。悪いものがなくなるように 「イエス様、何とか奇跡を起こして下さい」 と願うより、「その悪いことに負けないように、正しい姿を見せて他の人々と共に行けるように導いて下さい。力を与えて下さい」 と祈る。これがまことの祈りではありませんか。
  もう一回繰り返します。山は必ずあります。前にも後ろにも横にもあります。それをなくすことはできません。人間ですから、世の中ですから。私たちはみなつながっているからです。
  今日のミサの前に意向として「今あるところで戦争が起こった」(グルジアとロシアの戦争)と申し上げました。この戦争のことを知り、傷ついている人々をニュースで見て 「残念だなぁ」 と言うだけのことではありません。「かわいそうだなぁ」 と言う位の痛みではありません。私たちは彼らと一つの体、一つの心で結ばれています。それを望んでいるのがイエス様のみ旨です。私たちはみんなつながっています。だから何の痛みでも、彼らの痛みは私たちの痛みです。前にある痛みから逃れることはできません。その痛みを乗り越える唯一の方法を思い出しましょう。
  私たちが持っているこの信仰、信仰の力、信じる力、頼ることのできる力を信じましょう。そうしたら必ず乗り越えられると信じます。
                                          ありがとうございました。
              

                      印刷用ページ(PDF PDF文書) 
このページの先頭へ                                              週日の説教    金 大烈 神父   2008年8月5日(火)
    
                 《法律は人を守るためにあるものです》
  今日の福音(マタイ15・1-2、10-14)で、ファリサイ派の人々と律法学者達は、イエスの弟子達が食事の前に手を洗わなかったことについてイエスを試そうとしました。皆様はどう思いますか?  世の中には、今も昔もそしてこれからもいろいろな法律があります。それらの法律は、状況にあわせて改められる場合もあるし、そのまま使われ続ける場合もあります。しかし法律ができれば、私達は大体それに縛られます。その法律を守らなくてはならなくなります。もし守らなければ、違反や違法となります。
  昔、イスラエルの人々には〝律法″という法律がありました。その法律は作られてから何百年、何千年たっても変わらず、とても強い力を持つようになりました。イエス様の時代は、律法が作られてから何千年もたっていて、それを守るようにうるさく言われている時代でした。イエス様がおっしゃっているのは、「律法を守らないようにしなさい」 ということではありません。その逆です。しかし、イエス様が本当に言おうとしているのは、その律法より勝るものがあるということです。全ての法律には必ずそれに勝るものがあります。それはその法律を作った時の精神です。
  法律は必要によって作られるべきです。しかし人間のおろかさは、それを作った時の精神を忘れて、その法律の言葉のみに縛られてしまうのです。だから、「食事の前に手を洗わない」 という前になぜそうしなければならないのかを考えてみなければなりません。それは、汚れたものを清めるためではありません。昔は食糧を求めるのは難しい時代でした。だから、食事は命と直接につながっている大切なものでした。与えられた食事に対する感謝の表現方法として、自分の手を洗い、きれいな心で感謝しながら食事をしましょう、という意味で法律が作られたのです。しかし、時がたってその意味は変わってしまいました。手がきれいであっても何回も洗わなければならない。きれいに洗っても5分後に食事をする場合には、また洗わなくてはならない。このように、間違えた流れになっていってしまうのが人間のおろかさです。今日イエス様は、はっきりおっしゃっています。「口に入るもので人間を汚すものはない。口から出るものが汚す」 と。簡単明瞭な言葉です。
  よく考えてみると、法律や規則があるとき、なぜそれが必要かを私たちは子ども達にきちんと教えているでしょうか?「条件なしにこれを守らなければならない」 「これを行ったら人に迷惑をかける」 「これをしたら目立ってしまうから危ない」、そのような必要のないことばかり教えているのが今の時代の教育です。子ども達は、小学校を終わるくらいでこの世の中の正しい生き方についてほとんど習います。それなのに犯罪も人殺しもなくなりません。
  自分の行おうとしていることがよいことか、悪いことか、中学生くらいのレベルになれば全て分かります。それでも実行ができない。それは、なぜそれを守らなければならないかがはっきり身についていないからです。見えないところでは、更にきれいな生き方をしなければならないことをなぜ教えていないのでしょうか。人が見ている前では目立つから気をつけるように教えている。それは逆にいえば、見えなければなんでもしてよいことになります。この世の中はそうなってはいませんか?
  私は渋川にいた頃、犬を連れてよく散歩に出かけました。静かに座って星を見ながら黙想をしていると、車のヘッドライトが遠くから近づいてきて、近くに止まります。そしてドアを開けて、ゴミだけ捨てるとまたすぐに走り去って行きます。私がいることには全く気づいていなかったでしょう。誰もいないから、見ていないところだから、それをしてもよいと思ったのでしょう。法律の種類は多いけれど、どれもその現場を人に見られなければよい、という精神になっていないでしょうか?そういう無意識が、この世に住んでいる私たちの心の中に病気のように住み込んでいる気がします。明るいところより暗いところで、自信を持って素晴らしい姿を見せてほしいです。
  今日の福音(マタイ15・1-2、10-14)の 「食事の前に手を洗う」 ことについても、たぶん人が見ていなければあまり洗わないのが人間の心理でしょう。ファリサイ派の人達も人の前では必ず手を洗い、法律を守る姿を見せたと思いますが、見えないところでは、きちんと守っていたか疑いがあります。
  皆様、今日の福音を通してもう一度考えてみましょう。私たちが食事する前に、また何か良いことをする前に、イエス様は 「あなた方がまず求めなければならないのは感謝の心です」 とおっしゃっています。それを私たちはきちんと意識しているでしょうか? 感謝ができなければ私たちの信仰は絶対に続けられません。毎日、一生懸命にミサに与ってご聖体をいただいても、その中に感謝の心がなければ、その信仰はあまり長くは続きません。感謝の心は、変わらない信仰です。皆様はこのミサを感謝の心で捧げていると思います。しかしこのミサだけではなくてあらゆることについても、感謝の心で見ようとしてください。そうすれば許すことも、その他のいろいろなこともできます。もし感謝から始まらなければ何もできません。
  たとえば、あの人は社会のためにこの世にいないほうがよいという気持ちになることがあります。日本では死刑が法律的に認められています。もし、死刑はいけないという内容に法律が変わったら反対する人がいるでしょう。残酷な方法で人を殺したとか、人間として、してはいけないことをした人を見たら、あの人はあの何倍も苦しませて殺したほうがよい、と思う人もいるでしょう。そういう気持ちは私たち全ての人間の心にあるかもしれません。しかしそれは悪魔の誘惑です。なぜならば命を奪う権利は神様にしかありません。それはカトリック教会が2000年間かたく守ってきた精神です。もし私たちに感謝の生活ができれば、そのような人のことを耳にしても、その人のために憎しみや殺そうとする心を持つより、憐れみの心が先に生じると思います。あの人にも母がいるのだろう、あの人にも愛した人がいるのだろう、なぜこのようになってしまったのか、何の傷がこうさせてしまったのか。
  この頃、理由もなく人を殺す事件がけっこうありますね。社会は、そのような人を責めるような感じになっています。そしてそういう人々を掃除しないといけないようにはっきりと導いています。マスメディアや政治家達がいつもそのようにしようとしています。しかしそれはまず、私たち全体の責任です。そのような人が出てくるように許したのは私たちの心です。そういう事件があったら、まず被害にあった人達のために、私たちは当然祈ってあげるべきです。しかし、犯罪者のためにもイエス様に、「赦して下さい」 「癒してください」「悔い改めることができるように導いてください」 と祈ることが正しい律法精神ではないでしょうか? 律法というのは人を責めるため、殺すため、裁くために作られたものではなくて、人間をできるだけたくさん守るために作られたものです。しかし、その意味を間違えると、人間を守るためではなくて人間を殺す法律になってしまいます。その歴史がイスラエルの歴史の中に今も生きています。私たちはそういう間違えをしないようにイエス様に祈りましょう。
                                          ありがとうございました。
              

                      印刷用ページ(PDF PDF文書) 
このページの先頭へ                                   年間第18主日 金 大烈 神父   2008年8月3日(日)
    
                    《賢く忍び寄る・・・悪魔》
  おはようございます。今日の福音は何回も皆様に説明させて頂いた内容です。ですから、復習の意味で簡単に申し上げます。
 今日の福音の内容は、マジックの様にたった5つのパンと2匹の魚が次から次へと奇跡的に増えていって、5000人以上の人々が全部食べられたという事ではなく、どうしたら 「飢えることを避られるか」 について、イエス様が一番素晴らしい方法を教えてくれた物語である事を説明しています。イエス様は三々五々群れを作らせ、草の上に人々を座らせ、「今、あなた方は何を食べるか心配しているが、自分たちの袋の中にある物を全部出して下さい」とお命じになりました。そして皆が食べても残るものが人々の目に見えた事を説明しているのです。聖書の中で実際にイエス様が見せて下さった奇跡の中で、人類の立場から言えば一番素晴らしい奇跡はこの5000人を食べさせた奇跡です。もし持っている者も、持っていない者も、勉強した者も勉強しなかった者も、〝自分の袋″にある物を出せば、この世の中には飢えて死んでしまう子供はいなくなります。これをいつも私達が意識しなければならないと教えて下さったのがこの奇跡の話です。
 しかし振り返ってみましょう。とんでもない事で命を奪われる子供達、弱い人々がたくさんいます。その人々の為に私達はどの様に力になるか。そして自分が持っているものは神様に対して本当に相応しいものかどうか。考えてみましょう。
 〝分かち合う心″が私達に許されたなら、この世の中はもっと良くなると思います。そして〝分かち合おうとする心″が私達の心に生じたら、今までより私達は〝幸せ″を感じられると私は保証します。2000年前にイエス様がご自分の死をかけて見せようとした一番素晴らしい奇跡は〝分かち合う心″です。痛みも苦しみも喜びも、私達が分かち合う事が出来れば私達は必ず救われるのです。そして自分だけが救われるのではなく、自分が愛する全てのものが一緒に救われる。イエス様はそれを教えようと2000年前頑張って下さったのではないでしょうか。
 さあ、皆様、今日の〝5000人を食べさせた奇跡″を思いながら、私達は本当に分かち合わなければなりません。全ての事を分かち合わなければない。「その奇跡をこの共同体に起こして下さい」  という祈りを皆様にお願いしたいのです。
 今日、皆様に本当に言いたい話はこれからです。暑くなるとテレビでよく放送される番組があります。人々を涼しくさせるものは何ですか。幽霊、亡霊の物語ではないでしょうか。それを見ると皆様も背中が涼しくなりますよね。今日は特別に暑いので、皆様が涼しくなるサービスを提供します。
 霊の働きには2つの種類があります。一つは何でしょうか。〝聖霊の働き″。そしてもう一つは? 聖霊の働きに対して何の働きがあるのでしょうか。〝悪霊の働き″です。さあ、皆様に聞いてみましょう。その悪霊の存在を認めますか?
 悪霊とか幽霊、亡霊がいると思われる方、手を挙げて下さい。分かりました。
 ではいないと思われる方? 分かりました。
 カトリックの要理的な答えを致しますと、私達が〝善″、〝良い力″を認めたら、悪い力も認めなければならない。神様の存在を認めたら、それに反する勢力を認めるのは当たり前の事です。私達はその反対勢力を拝んではいけないけれど、それがいる事にいつも気を付けていなければならない事は大事な事です。
 いますよ。悪い〝気″、必ずいますよ。亡霊、幽霊等色々な名前を付けられていますが、いわゆる悪霊はいます。
 この働きについて、少し説明したいと思います。悪霊の働きはだいたい何だと思いますか。簡単に言いますと、私達が神様のみ旨を行う事を邪魔する事です。人がつまずく様に導く事です。そうではないでしょうか。
 神様のみ旨とは何でしょうか。〝愛の実践″〝良いことを施す事″です。そういう事をしないようにするのが悪霊の働きです。では私達の日常生活において、具体的にどの様に悪霊の働きが見えるのでしょうか。例えば、一週間一生懸命働いて疲れて土曜日を迎え、そして日曜日の朝になります。「まぁーいいよ、疲れているのだからミサに行かなくても神様も理解してくれるよ」と言うのは、聖霊の働きではなく悪魔の働きです。子供たちが受験する時 「大学に合格してからミサに与ればいい」 と母親が子供が教会に行くのを妨げる。これは母親の心ではなく悪魔のいたずらです。困っている人に遇っても 「私でなくても誰かが助けてくれる」 とその人の前を通り過ぎる。これも悪霊の働きです。悪霊は少なくとも人間より頭が良いのでしょう。人間は知能指数が140位だったら天才と言われるでしょう。しかし、悪霊は人間の知能をはるかに超えると思います。本当に狡猾で悪賢いです。人間が本当に好む物、嫌う物、そして欲張りになってしまうものを良く把握しているのが悪霊です。2つのものを人間の前に置き、どちらを選ぶかを推し量る事が出来るのが悪霊です。その悪霊の働きを退ける一番良い方法は何でしょうか。
 これから大事な話をします。この世の中には能力のある司祭、能力のある修道者とか能力のある信者が必要な時代ではないと思います。この時代が必要としているのは聖なる司祭、聖なる修道者、聖なる信者だと思います。〝聖なる″とはどういう事ですか。〝祈る″事です。祈る事とはどういう事ですか。〝イエス様のみ旨をはかる″心です。「あなたのみ旨は何でしょうか」、「私はどうしたら良いでしょうか」、「どうすればあなたのみ旨に叶うでしょうか」 と聞くのが祈りです。どんなに能力があっても悪霊の働きには負けます。悪霊の働きを防ぐ為に、退ける為に本当に必要な事は、イエス様がおっしゃった様に「私の父が聖なる方であるように、あなた方も聖なるものになりなさい」という言葉を私達が受け入れる事だと思います。
 負けないように祈って下さい。昔の信者の方は、朝起きた時に、そして夜寝る時に家族全員が集まって祈るように親から教えられ、またそうした記憶が残っていると思います。今の時代は夫婦が一緒に祈ってから寝る事も少なくなりました。その様な姿をなかなか見る事が出来ない。まず家庭から始めましょう。食事をする前に父親、母親が 「父と子と聖霊のみ名によって」 と十字をきり、「あなたの恵によって私達はこの様な豊かな食事をとる事が出来ます。感謝します」 と言う姿を私達が求めなければならないのです。夫婦の場合も、たとえ忙しくても何秒もかからないのですから、朝一緒に十字架をかけて 「今日一日を神様に委ねましょう」、また寝る前「今日は、けんかもしたけれどイエス様に許しを頂きましょう」 と主の祈り、天使祝詞など心を合わせて祈る事が出来たら、この様に暑い日にもぐっすりと深い眠りにつけるのではないでしょうか。
 いつもねらっています。本当に賢くねらっています。悪霊の働きはそれが誘惑である事が分からない誘惑です。自分が誘惑に陥っている事さえ分からない、気が付かない、その様に賢い誘惑、悪霊の働きに負けない様に私達は聖霊の働きを求めなければならないと思います。聖霊の一番素晴らしい働きはそれに気付かせてくれることです。
 よく考えて下さい。選ぶ基準は〝皆様にとって良いもの″です。〝良い物″を選んで下さい。〝良い物″は時には〝面白くない″ものとして現れるかも知れません。面白い、面白くないという事と関係なく、皆様にとって本当に必要な事を選んで下さい。それは祈りの中で聖霊の働きによって識別出来ると、わきまえる事が出来ると私は思います。
 最後に、もうその様な姿が見えているのですが、皆様自ら祈りの集まりを作って祈ってみて下さい。例えば、第1土曜日の夜6時半のミサ後にはブラジルのある信者さんが中心になってロザリオの祈りをやっています。そして昼間も何人かが意向をもって祈っています。そういう姿を見ると司祭である私も嬉しく思います。皆様も隣人の信者さんと2、3人でもいいから祈りの集まりをやってみたら良いのではないかと思います。家庭の祈り、隣人、兄弟姉妹たちとの祈りの集まりが出来れば、この共同体は本当に素晴らしい共同体になるのではないでしょうか。
 本当に暑さが続き不快な気持ちになりやすい毎日ですが、その様な天気にも負けない元気な祈りをして行きましょう。
                                          ありがとうございました。
              

2008年 7月1日 7月6日 7月8日 7月13日 7月15日 7月17日 7月18日 7月20日 7月22日 7月24日 7月27日(日)の【神の種】は休載します。
                      印刷用ページ(PDF PDF文書) 
このページの先頭へ                                              週日の説教    金 大烈 神父   2008年7月29日(火)
    
                       《愛とは何でしょう》
 今日は、第一朗読福音も黙想のできる素晴らしい中身を持っています。 第一朗読のヨハネの手紙Ⅰ(4・7-16)の中身を見るとテーマは愛です。
 「神は愛である。そして神を今までに見た人は誰もいない。しかし、あなたがたのうちにもし愛そのものがあれば、その中にはイエス様(神様)がいらっしゃる。あなた方は生まれる前から愛されたのであるからあなた方も愛するべきである。そしてその愛は命につながる」
 しかし、どんなによい言葉でも、あまりにもたくさん聞いてしまうとその意味を失って、薄くなってしまうのが自然な流れではないかと思います。たとえば、歌謡、歌曲、オペラなどあらゆる種類の歌を見ても、たぶん8割くらいは、愛が主題となって歌われているのではないでしょうか。〝恋について″とか〝別れの歌″など自分が体験した愛について歌っていますね。
 皆様、私たちは愛というものをどのように理解しているのでしょうか? 愛とは何でしょうか? 愛という言葉がわからない人は一人もいませんよね。外国人でも〝愛″の字は書けると思います。では、愛とは何ですか? これについて私たちがはっきり理解していなかったら一番大きい戸惑いが生じます。
 皆様もそして私もこの世の中の人間はいつか神様の前に立ちますね。その時、イエス様はどのような質問をされると思いますか? 私は、イエス様はただ一つのことを聞かれるのではないかと思います。「愛について本当に分かりましたか?」 「本当に人を愛しましたか?」 という質問です。そして、そういう質問に対し、「はい、できました」 と答えるか、「はっきり分かりません」 と答えるか、「いいえ、私はできませんでした」と答えるか。この三つの答えの中の一つが私たちの口から出るのではないかと思います。
 イエス様は、「あなたは王子であったか? 王女であったか? 司祭であったか? 大学を卒業したか?」そのようなことは絶対聞かれないと思います。きっと 「あなたは、私があげたその力で本当に愛を経験して来ましたか?」 と質問されるのではないかと思います。そして、それが私たちの救いの道なのです。私たちは奉仕の仕事、施し、正義、平和、信仰のためにいろいろと働きます。しかしその働きの動機(モチベーション)が愛でなかったら、それは結局何の意味もないものになってしまうことを意識するべきではないかと思います。
 私は皆様を愛しています。皆様も私を愛していると思います。この言葉についてどのくらい自信がありますか? それを理解できますか? ある人は、とてもよいことをしているのに、その中には愛と似ているものが見られません。そういう人がかなりいます。そのような人を注意深く見てみますと、まず傷が見えます。そして、自分のために、自分の行いが相手のためのものであるかのように飾り立てます。しかしそういう人々は、何でもないようなものにぶつかったとき、悔しいときなどにすぐに倒れてしまいます。逆に、人間としてはそんなにすぐれた力を持っていない人でも、もしその中に愛があれば、何回失敗をしてもその人は本当に私のためを思ってくれていると分かります。夫婦の関係も親子の関係も同じです。信者のかかわりも同じです。
 皆様、愛という言葉は、私たちがあまりにも簡単に聞いたり、使ったりしたので、その意味が薄くなってしまったように感じられます。絶対に変わらない愛とはどういうものなのか、その意味についてよく考えてみましょう。愛は、利己的なこととは違います。それは嬉しく犠牲を払うことです。犠牲を払うことがそんなにつらくないことです。少し損になってもそれが悔しい気持ちにならないことです。そういう体験ができればたぶん私たちは幸せになれると思います。
 しかし、いつも相手に対して条件をつけてしまうのが、私たちの弱さではないでしょうか。私はこれをしてあげたのになぜあなたはこれをしてくれないのか? 私はあなたを守ってあげるのになぜあなたは私を守ってくれないのか? 夫婦喧嘩は大抵そういうものではないでしょうか? しかし、それはある意味で子どもっぽい愛の形です。それを乗り越えて、相手が自分を悲しませても自分が愛することには積極的になり、ある意味では気分的で一番自然な形の愛を持つことができるようになれれば、いろいろ難しいことがあってもたぶん何とか乗り越えることができるでしょう。それが第一朗読を読んで黙想してみたことです。
 そして、今日はマルタとマリア姉妹の物語がありますね。うちの教会のおよそ3分の2くらいの女性はマルタの傾向にあります。そして3分の1くらいがマリアの傾向ではないか思います。しかし、イエス様に叱られたのはマルタのほうでした。イエス様は彼女に、「あなたの妹は本当によい方を選んだ。それをうばってはいけない」とはっきりおっしゃいましたね。人間的にこの物語を読んだら、私たちはマルタのほうに力を入れたくなります。でも、考えてみてください。二人の姉妹がいます。そして姉妹の本当に好きな人がいます。二人は、彼と話しをして喜びを感じたい。だから姉は一人で、その人のためにもてなしの準備をします。心はものすごく忙しくなります。しかし、妹は彼の足元に座って、笑顔で王女様のように話をしていたら、準備をしている姉の気持ちはどうなるでしょうか? 妹が憎らしくなりますよね。私たちはそういうことで友だちや姉妹や兄弟をよく批判していますよね。
 今、二人はともに聖女となりました。マルタは活動宣教をする修道会の模範、マルタは観想修道会の模範とされています。これは、人によってそれぞれ自分に与えられた方向があること、それに対して感謝しようとすること、を意味しています。そして本当にイエス様が好きであれば、マルタは嫉妬をするのではなくて、妹が自分のかわりにイエス様を楽しませてくれることを喜ばなければいけないことも示しています。しかし私たちには、そうすることがなかなか難しいですよね。もし二人が一生懸命にもてなしの準備だけをすればイエス様は何をするのでしょうか?だから、役割は分担しなくてはいけないのです。マルタは自分に都合のよいことを言って、自分のことを言い訳しようとしていました。しかし、彼女の無意識の中には100%ねたみがありました。その同じねたみを私たち人間はみんな持っています。もし妹がもてなしの準備をして、姉のマルタがマリアと同じようなことをしたら、マリアもマルタと同じことをしたと思います。イエス様ははっきりおっしゃいました。「必要なものはただ一つである。マリアはよいほうを選んだ」 と。
 皆様、本当によいほうを選んでください。それは回りを意識する必要もなく、絶対にゆずれないというものです。夫婦の関係、親子の関係、友の関係とか信仰の関係でもゆずってはいけないものが必ずあるはずです。
 さあ皆様、今日のミサを通して、マルタの模範、マリアの模範が、私たちの従うべきものであることを認めましょう。そして、その二人が見せた役割について、自分がどちらに傾いているか考えてみましょう。それが判断できたならば、自分の傾きを生かしてください。きれいに素晴らしく生かしてください。神様が自分に与えてくださった素晴らしい賜物を生かそうとする恵みを求めましょう。
                                           ありがとうございました。
   

                      印刷用ページ(PDF PDF文書) 
このページの先頭へ                                              週日の説教    金 大烈 神父   2008年7月24日(木)
    
                  《たとえとしての生き方をしましょう》
 みなさま、聞こえますか? 「聞こえる」 というのは、自分の意思とは関係なく、仕方なく耳に入ってくることです。自分から 「聞いている」 かどうかが、とても大事なことです。
 見ていますか? 私たちは、「見ている」 と言いながらも実際には見ていないことがよくあると思います。「聞いている」といいながらも、無意識的に聞き流そうとする心、逃げようとする心があります。
 人間は、本能的に聞きたいことは誰も何も言わなくても耳を傾けられます。見たいものは誰が防ごうとしても何とか見出すように目が行きます。それは当然なことです。逆に自分にとって厳しい言葉, 責められる言葉や反省をさせるような言葉を聞くのはみんな苦手です。当たり前かもしれません。しかし、今日のこの福音を通して、他のことは聞かなくてもみ言葉は聞こうとすることが何よりも必要ではないかと思います。実際、み言葉をまじめに聞こうとすると、まず現れる心の変化は〝辛さ″です。十分にやって来たと思ったのに、み言葉を聞いてみたら 「全然違う」 と言う自分を責める気持ちになります。
 しかし、それを乗り越えなくてはまことのイエス様のみ言葉を受け入れることはできません。「よい薬は苦い」 です。苦いけれど体によいということです。ですから、褒めることも福音的かもしれませんが、たまには叱ることも(叱る立場は辛いのですが・・・)その人のために薬になるだろうと思い、自分の人柄と合わない姿を見せる必要もあるかもしれません。特に、近頃の子ども達に対しては、そう思います。親が何も言わない。だから甘えん坊になってしまい、自分勝手でわがままで、相手のことを全く考えずに利己主義的な姿を見せるようになってしまいました。特定の家の子どもではなくてあらゆる家庭の子ども達がそうです。そういう時代になってしまったのかもしれません。
 それはたぶん親の責任だと思います。親が言うべきことを言わない、そして子ども達も聞くべきことを聞かないから。いろいろなことがあわさって、こういう時代になってしまったのかもしれません。しかし、「遅れたと思う時が一番早い時だ」 と言われます。そういう足りないところを感じたら、何かする必要があるのではないでしょうか。
 今日は、少し神学的な用語を使ってみます。みなさま、この言葉はどういう意味か考えてみてください。〝喩え(たとえ)としての生き方″です。今日、イエス様はこのようにおっしゃいました。「ご自分を知らない人にはたとえを用いて話された」 と。みなさまは、イエス様を知っていますよね。そうしたらみなさまの生き方自体が、〝たとえ″のような生き方にならないといけないのです。
 信者ではない人が、私たちの生き方を見て、イエス様の御心を推し量る。そうなるように私たちは〝たとえ″のような生き方をしなければなりません。私自身が、みなさま自身が、イエス様からだされた一つの〝たとえ″にならなければなりません。私を見て地獄を考え、私を見て天国を考え、私を見て幸せは何か、不幸は何か、正しい道は何か、よくない道は何かが分かるように、私たちがはっきり見せなくてはならないのです。難しいことですよね。
 人は、許しの秘跡を求めて来る時に反省をしますね。その時、私自身は〝たとえ″として上手に対応できたか、それをいつも振り返ります。私を見て、天国ではなく地獄を感じ、イエス様のみ言葉ではなくて悪魔の言葉を感じてしまったら私は大失敗です。しかしこれは、司祭だけのことではなく、信者である全ての人々が求めなければならない生き方でしょう。ですから、みなさまの中にあらゆる神様のみ言葉が現れ、隠されているイエス様の神秘が自然に見られるような、そういう生き方を心がけないといけないと思います。
 みなさまは〝たとえ″です。〝たとえ″には責任が必ずついてきます。私たちの人生には、死ぬまで優しいことは一つもないのです。いつも何かしなければなりません。良い〝たとえ″となれるように恵みを求め、祈りましょう。
 昨日、大きい地震が起こりましたね。この頃、頻繁に地震が起こっています。私は5年前に日本に来ましたが、今年のように一ヶ月の間に何度も、しかも広範囲に地震が起きたのは初めてです。地球が傷んでいるのは確かです。地球が傷んだ原因の一つは、自然の破壊だと言われています。そして自然の破壊は、人間が人間らしく生きること、倫理性を失った結果のよって起こっているものです。人間の利益や欲によって開発が行われ、いろいろなものが壊されているのは確かです。しかし、もっと深く考えてみると、道徳性を失った社会のためにこういうことが起こっているのです。
 聖書の中には、この世が終わる時には、いろいろな現象が起こる、と言われています。その中の一つが自然破壊。そして人間が人間性を失うこと、人が人を殺すこと、物質的なものが精神的なものよりはるかに価値を持ってしまうこと、などいろいろ言われています。そして今の世の中を見ると、まさに人々はそのような生き方をしています。だから精神的に悩んでいる人がたくさんいます。そして、その悩める人を導く人もほとんどいません。人の前に立ってよいことを言う人たちも、よく見るとみんな嘘つきです。そのような状況の中で、信者である私たちがもっと〝たとえ″のような生き方をしないといけません。
 もし私によって、一人でもイエス様のみ言葉と接し、喜びや大切さを感じ、それによって救われたならばなんという幸せでしょうか?
 私たちは、神様から与えられている使命をもっと意識することが必要ではないかと思います。
      
                                            ありがとうございました。

                      印刷用ページ(PDF PDF文書) 
このページの先頭へ                                              週日の説教    金 大烈 神父   2008年7月22日(火)
    
                   《マグダラのマリアをとおして・・・》
 先週、私はみなさまに悔い改めの意味について話をしました。覚えていると思います。
 いろいろな聖人・聖女がいますが、その中でも悔い改めることの一番素晴らしい模範となったのは、たぶんマグダラのマリアではないかと思います。イエス様に出会う前の彼女の人生は、本当に難しいものでした。それは、私たちみんなが知っていることです。姦淫をしたことが知られてしまい、石を投げられて死にそうになった女性が、マグダラのマリアではないかという話しがあることもご存知ですね。
 とにかく今日の福音を読んで私たちが考えるべきことは、なぜイエス様は、この〝復活″と言う出来事を最初にマグダラのマリアに見せたのか、ということです。今までイエス様の話して来たことが本当だったと証明できるような、素晴らしい、一番大事な出来事でもある〝復活″をです。私たちは、それを意識するべきだと思います。ペトロでも聖母マリア様でもない、また他の誰でもない、いろいろな人に指を差されて悪い人だと言われたマグダラのマリアになぜイエス様がご自分の一番栄光に輝く姿を最初に見せたのか。そのことをもう一度私たちは考えて見ましょう。
 それは、人類に対して、一つの一番素晴らしい希望をイエス様が見せてくださったことを意味します。私たちが本当に悔い改めることができれば、そして生き方の方向を変えることができれば、イエス様が見せようとする全てのものがその人に現れることを意味します。
 ですから、どのようにすることが悔い改めることになるのか、よく考えてみましょう。ただ反省することで終わるのではなく、何とか、それを直さなければなりません。
 マグダラのマリアは完璧に自分の人生を変えました。今まで負ってきた傷も、全ての生き方、生き残る方法さえ全部捨てて、死ぬまでイエス様のことを考えたのです。ですから、みんなが怖くて逃げた時にも彼女は亡くなったイエス様を見ようとする情熱を表したのです。そういうことにイエス様も感動をされたのでしょう。だから、イエス様が示そうとした福音の真理、その宝物が彼女を通して現れたのです。
 イエス様は、いろいろな成果や成績は気にされません。イエス様が私たちに望まれるのは、本当にイエス様の心をわかること、です。ご自分が何を望んでいるかをわかってほしい、と思っていらっしゃいます。マグダラのマリアは、イエス様のその御心をわかった人です。そして分かっているから自分の人生を変えることができたのだと思います。
 このマグダラのマリアのようなイエス様との出会いの体験、それが私たちの生活の中でも何回もあるように願わなくてはならないと思います。
                                            ありがとうございました。
 

                      印刷用ページ(PDF PDF文書) 
このページの先頭へ                                   年間第16主日 金 大烈 神父   2008年7月20日(日)
    
            《雑草(悪)を抜くより、花(善)をきれいに強くしましょう》
 おはようございます.暑いですね.ある物語を話します。
 ある少年が旅に出ました.しばらく行くと気になる光景が目に入りました。二軒の建物が立っていました。それは形も模様も色も双子のように同じ建物でした。そしてそれぞれの家の前に、体つきも年齢も雰囲気も似たおじさんが一人ずつ立っていました。その上、同じ位の大きさ広さで同じ種類の花がたくさん咲いている花畑がそれぞれの家の前にあったのです。同じ建物、同じ条件を持ったおじさん、同じ種類の花。少年はもしかしたら双子じゃないかと思いました。同じ考え方を持っているから同じ建物を建て、同じ庭を作ったのだろうと思って近づいてみました。もっと近づくとさらに不思議なことに、似ている二人のおじさんの顔の表情が天と地ほど違っていました。一人はものすごく喜んだ顔、もう一人はものすごく悲しい顔をしていました。この少年はなぜ同じ条件、同じ環境の中にいながら二人の顔がこんなに違うのか気になりました。
 少年はまず悲しい顔のおじさんに聞いてみました。「おじさん、なぜそんなに悲しい頻をしているのですか?」 「それが聞きたいの? それには訳があるんだよ。ある日、窓から差し込む光がまぶしくて目が覚めた。立ち上がって窓の外を見たら自分の家の前に空地があることが気になり、その空地に花を栽培すれば毎日花を眺められる、そしたら今よりもっと楽しくなるのではないかと思った。それでその空地を買い、市場でいろいろな花の種を買ってきて空地に蒔いた。何日かして芽が出て、そのうち花が咲き、私が望んだ通りの花畑ができた。ところが、その花を見て楽しもうとしたら雑草も生えているのが目に入った。私の貴重な花畑になぜこのような雑草が生えたのか、こんなことはありえないと雑草を抜き始めた。最後まで抜いて、これでやっと花が楽しめると思い、後ろを振り返ったら、前の場所にもう雑草が生えていた。私は見て楽しむために花を植えたのに今は花が目に入らない。いつも雑草を抜くのに時間をとってしまい、花を楽しむことができなくなってしまった。ばかなことをしているのではないかと悲しくなる」 ということだった。少年はその話に一理あると思いました。
 今度は笑顔のおじさんの所に行って 「おじさん、この花畑を耕すのに疲れるんじゃないですか?」 と聞きました。「そう思うの? 私も日が覚めて空地を見て、そこに花畑を作ったらもっと暮らしが楽しくなるんじゃないかと思って種を蒔いた。そして一生懸命育てたらきれいな花畑ができた。しかし、その中に雑草が生えているのが分かった。それで、その雑草を取ろうとがんばったけど、後ろを見ると又悪い草が生えていた。何回も繰り返した後、これでは花を見る余裕がないことを悟った。そこで自分の考え方を直した。雑草を抜くのに時間を使うより、花をもっと強く育てた方がいいんじゃないかと。そして、いろいろな花が強くなると雑草が生えにくくなるということを体験した。今は花が楽しめるようになった。だから私はいつも笑顔でいられるんだよ」 と話してくれました。こういう物語です。
 実際、私も司祭になる前、修練の時にビニールハウスで花を育てる仕事をしたことがあります。先程の物語は作り話です。しかし、これが実際のことだと思って考えてみましょう。この物語から二つのメッセージを捉えることができると思います。
 ひとつは、人間は幸せとか幸福についていつも条件を作ろうとしています。しかし、人間の求めるべき幸せは条件や環境の問題ではありません。自分の心がどのようになっているかによって幸せかどうかが決まります。同じ建物、同じ畑、同じ健康状態、そういう同じ条件の中にあっても、私達は不幸になろうとすればすぐに不幸になります。幸せになろうとすれば幸せになれます。もちろん条件によって難しさはあります。しかし、本当の幸せを感じさせるのは、その条件ではないことをこの物語を通して考えてみましょう。
 二番目は、人類の歴史の中で、いつも悪と善がありました。今の時代もこれからの時代も必ず悪と善があります.人類の歴史の中で犯した一番大きな愚かさが何かを説明しますと、いつも正義という名で、正しさという名で、悪をなくすためにもっと悪いやり方で悪をなくそうとしたことです。正義のために戦争を起こします。平和のために人を殺します。裕福な世界経済のためにカのない国を攻めます。いつも正しさの名を前に掲げて、悪いことをなくすと言いながらやってきた人類のやり方に対して、イエス様は今日の福音を通して警告していらっしゃるのではないでしょうか。
 皆様良く考えてみて下さい。人間は好みがあります。見たくないものもあるし、見たいものもある。私達の本能は見たくないものはできるだけなくしたい。「あれがなければ私はもっと気持ち良くなる」「あの者がいなければこの共同体はもっと良くなる」と。それが人間の心だと思います。しかし、私達が悟らねばならないことは、雑草は取っても抜いても又生えてくる。その雑草が気になったら、花をもっと強くしましょう。花をもっと大事にしながら、その花のすばらしさによって雑草がなくなるようにしましょう。その方法を見せて下さったのがキリストでした。
 全智全能の神が一番無能な方法で人間にやられました。そのやられたイエスに従う私達がいつも自分のやり方で、イエス様の教えとは違う方法で反対の方向に歩もうとするなら、それはまちがいだと思います。教会の歴史の中でもまちがいを犯しました。イエスという名によって人を迫害した時代もあるし、教会が権力と手を結んで神に汚名をきせた時代もありました。又ある時代は臆病になって社会正義を叫ばないこと
もありました。
 私は子供の時こういう疑問を持っていました。なぜ愛である神は人間を愛しながら悪人と善人が一緒に住む世界を創ったのか? なぜ悪人をなくしてくれないのか? 神様が悪い者を全部なくして天使のような者だけ残してくれたら、どの位幸せな世界になるだろう、という子供っぽい考え方をしていたことがあります。この考え方はまちがっていました。しかし、今の時代にも私が子供の頃持っていた考え方をしている人がカトリック信者の中にもたくさんいます。もしそれができたら、イエス様は絶対十字架の道を歩まなかったと思います。御自分がいつも語られていた〝愛″に対して完璧に責任を取る方法は自分が犠牲になることでした。「敵を愛しなさい」と叫んだその口が本物であるためには、あの方は十字架の上で徹底的に無能な姿で、愛する母の前で惨めに死ぬ方法しかなかったと思います。
 皆様、私達が悪を憎むのは正しいです。しかし悪をなくそうとしてもっと悪いやり方をしてはいけない。善をもっと強めましょう。それが2000年前、イエス様が教えられた唯一の方法です。しかし私達は時々忘れます。司祭である私も見たくない人を遠ざけようとする心があります。でもそれはありえないことです。私達が犠牲を払わずに善を行おうとすることはうそです。
 皆様、いろいろあると思いますがやっぱり雑草は雑草です。それをなくしたかったら花をもっときれいに強く育てましょう。それが今日の福音のメッセージではないかと思います。
                                            ありがとうございました。

 

                      印刷用ページ(PDF PDF文書) 
このページの先頭へ                                              週日の説教    金 大烈 神父   2008年7月18日(金)
    
                    《私が望むのは哀れみの心》
 こんばんは。
 今日の福音(マタイ12・1-8)を通して、イエス様が求められるのは何だとおっしゃいましたか。〝生け贄″ではなく〝哀れみの心″だとおっしゃいました。ではその〝哀れみの心″とは何でしょうか。哀れみの心は〝正しい人間″でなければ生じない心の働きです。それはどういう意味でしょうか。間違えて教えられ、それが自分の身になってしまった〝作られた心″の働きではなく、また色々な否定的な体験によって作られた心の働きでは、哀れみの心は生じません。イエス様が 「私が望むのは、生け贄ではなく、哀れみの心である」 とおっしゃいました。
 この事は私達にはどの様に現れるのでしょうか。私達は哀れみ深い方でしょうか、そうではなく冷たい方でしょうか、無関心の方でしょうか。よく心を配る方でしょうか。本当に心から助けを求める人が私達の前に現れたとしたら、皆様が見せる反応はどうですか。「私はその人を無視して通り過ぎてしまえない性格だな~」 という思いがあれば皆様は祝福されているのです。しかし自分が持っている傷が多すぎて人の痛みを見る余裕のない人もいます。また見ても感覚的にその人の痛みを感じる事の出来ない人もいます。しかし今ここにいらっしゃる皆様は、気の毒な人を見たらものすごく心が痛む、その様な経験が沢山ある方だと思います。
 貧しくて子供の頃、物乞いの様な生活を送った人が2人いるとしましょう。そしてその2人が成長し大人になって、一人は貧しい人を見ると、自分の昔のことが思い浮かび、心が痛くなってその人を助けてあげなければ自分が耐えられない。もう一人は自分が受けた事が深い傷となり、その受けた傷の何倍かを返そうとし、貧しい人を見ても無視したり、人の上に何とか立とうとする。実はこの様な人は結構います。
 人を見たらその人が子供の時にどの様な事で悩んだかすぐ解ります。「この人はお金について、この人は勉強について、この人は健康について傷があるのだな」 と大人になったその顔に現れています。ぞれぞれの傷を乗り越えた人、肯定的に自分の痛みを乗り越えた人、しかしもっと悪くなった人も結構います。ですから私達にとって色々な傷が〝恵み″になるのか〝自分を縛りもっと悪くするもの″になるのかは、自
分がどの様に乗り越えるかによって違ってくるのではないでしょうか。
 いつか 「いらないエネルギーを使わない様にしましょう」 と言ったのを覚えています。〝いらないエネルギー″とは何ですか。私達のこの共同体も〝信仰の共同体″ですが、色々なタイプの人が集まる一つの社会です。ですからそれぞれの格差や違いが沢山あります。自分の目を通して見る全ての人が自分の心に〝いる″とは言えないと思います。ですから気に入る人もいるし、どんなに頑張っても満足のいく関係にならない人もいるし、その人の顔を見ただけで、自分の心がおかしくなってしまう様な相手もいるのが自然な事です。それで、信仰を持っている私達は、その様な事で悩む事にエネルギーを使わない様に願うことです。
 よくご覧になって下さい。本当につまらない事に力を注ぎ、命をかけている様な人もいます。その人はそのようにして、自分にどの様な損になるか解らないのです。また、その人を責める為に言葉を尽くして言い立てる人もいます。どの教会でもあります。その様な事はイエス様のみ心とは逆の事をやってしまっているのです。
 私は典礼においては、ある意味で厳しいところがあります。私は〝守るべきもの″は〝守り″、〝良いもの″は受け入れ、そして〝悪い癖″は捨てて欲しいと思っています。それが私の求める一つの道ですが、そういう意味で私も今日のファリサイ派の人の様に、自分が欲しがるものにつまずく、つまずかされるケースもあるのです。
 この様な事も皆様自身の中にもあると思います。ですから今日のミサを通して、もう一度ご自分の事を考えてみましょう。誘惑はあると思います。まず裁く前に、非難する前に、今日は〝とがめる″という単語がありましたが〝叱る″前に、「私があの人だったら」 と考えてみましょう。そうしたら相手に対する理解が広くなるのではないでしょうか。
 昔から言われる言葉があります。罪を裁いて、罪を犯した人を裁いてはならない。しかし私達は罪を裁くことより人を裁きます。その人が嫌いだったらその人がする全ての事が嫌いになります。しかし私達が正しい批判とか裁きをする場合には、その人の人柄ではなく、その人が犯した罪に対して説明しようとする事が何より必要ではないかと思います。
 やはりイエス様はすごい方です。私達が全てをかけても惜しくない方です。本当に広い方です。本当に沢山の言葉が有るのに 「私が望むのは〝哀れみ″である」 とおっしゃいました。この様な〝親分″を持っている私達は幸せな人です。
                                          ありがとうございました。
 

                      印刷用ページ(PDF PDF文書) 
このページの先頭へ                                              週日の説教    金 大烈 神父   2008年7月17日(木)
    
                       《試練は、恵み!》
 今日の福音(マタイ11・28-30)を読んでみますと面白いところがあります。
 イエス様は、「私のくびきは負いやすく、私の荷は軽い」とおっしゃいました。「私にはくびきがない、私には重荷がない。だから休んでください」とはおっしゃいませんでした。
 なぜならば、私達に与えられた人生の中で、くびきを負わない、重荷を負わない、というわけにはいかないからです。私たちが錯覚を起こさないために、イエス様ははっきりとおっしゃっているのです。信仰の道を歩み、信仰の体験ができ、イエス様と一致することさえできれば、何も難しいことはなくなるという錯覚をおこさないために。そして、そのような錯覚を起こすことはよくあります。その時、一番恐れなければならないのは、何かの試練に襲われたことにより、信仰を捨ててしまうということです。それは、よくあることです。一生懸命に信仰生活をしていた人がある日突然、教会へ足を運ぶのをやめてしまうことがあります。理由を聞くと、いろいろなことがあった結果、イエス様を信じる必要がないと思ったことを話してくれます。
 試練は必ずあります。そしてカトリック的に言いますと試練は恵みです。それを悟るために必要なものがあります。それは時間です。なぜ私はこのような難しい問題に遭遇しているのか、なぜ私はこのような試練を受けなくてはならないのか、そういう質問をイエス様に伺う時間です。
 その時間というものが結局、祈りです。そしてその祈りによって、自分に与えられた全ての難しさの意向を悟ることになります。その悟りが信仰を強めてくれます。
 結局私たちは誰も十字架を負いたくはないのです。それはあたりまえです。しかし、その十字架をこばむのではなくて、なぜ私にこういうことが起こらなくてはならなかったのか、疑問を持ち、その意味を一生懸命にイエス様に伺おうとする心が信仰の道ではないでしょうか。
 韓国には、このようなことわざがあります。
『神様は贈り物をくださるとき、必ず苦痛という風呂敷に包んでくださる。人々は自分に与えられている苦痛という風呂敷を解こうとする。しかし、その痛みのために、途中で解くことを諦めてしまう。そして、中身を見ようとしなくなってしまう』
 しかし信仰と言う時間の中で、心をこめて、その風呂敷を解こうとする努力が必要なのではないでしょうか? 幸い、イエス様は、解かずに諦めてしまった人々にも待っていてくださいます。最後まで待っていてくださいます。もし、今までに諦めてしまった方がいるならば、イエス様は今でも呼びかけて待っていらっしゃるのです。
 結局信仰というものは、応えることです。ですから、中身を見ないまま判断はしない、という心を持ち、最後まで中身が何であるか知ろうとする気持ちが必要なのだろうと思います。
 皆様、私たちの人生の中には必ず重荷があります。くびきがあります。諦めずに、その重荷やくびきの意味を把握し、それらが私達にとっては一番大きい素晴らしい恵みであるということを知ることが信仰なのではないでしょうか。
                                         ありがとうございました。

 

                      印刷用ページ(PDF PDF文書) 
このページの先頭へ                                              週日の説教    金 大烈 神父   2008年7月15日(火)
    
                   《悔い改めの恵みを祈りましょう》
 今日は、いくつかのユダヤの町の名前が出てきましたが、その中で一番有名なのは、カファルナウムです。カファルナウムは、シリアとエルサレムの真ん中で交易などが行われた町です。ヘブライ語では〝なぐさめの町″という意味です。イエス様が一番たくさん宣教の活動を行なわれたのは、このカファルナウムでした。ここでペトロやアンドレア、ヤコブ兄弟に呼びかけられました。また、会堂長の娘の癒しや、100人隊長の僕の癒しなども行われました。しかし、イエス様がそれほど力を入れて叫んだ町であるにもかかわらず、カファルナウムは悔い改めの姿を見せませんでした。今日の福音(マタイ11・20-24)は、それを呪うような内容となっています。
 今日の福音(マタイ11・20-24)を読んで私たちが思い出さなければならないのは、受け入れる心が何よりも必要であるということです。受け入れることが出来なければ、悔い改めることはできません。良いものを見た時、たとえそれが自分に恥をかかせるようなものであったとしても、これは正しいのではないかと思い、受け入れようとする気持ちを持てなければ、私たちには悔い改めることができないと思います。
 言葉の勉強をちょっとしてみましょうか。私たちの国である日本も韓国もそして中国も漢字の文化です。漢字の組み合わせによって一つの単語になります。「悔い改める」 という言葉は素晴らしい組み合わせでできていると思います。西洋の言葉で、「悔い改める」 と似ている意味を持っているものを探してみますと、「後悔する、反省する」くらいの軽さしかありません。しかし、「悔い改める」 という言葉が意味するものを解いてみると〝悔いる″と〝改める″という二つの意味を持つ動詞が組み合わさってできているのが分かります。ですから、悔いることだけに終わらせず、改めなくては、その単語の持つ意味を充足させることができません。後悔するだけ、反省するだけ、悔いるだけで済む言葉ではなく、必ずその反省した点を改めなくては、即ち、直さなくてはならないことを分かっていただきたいのです。実際には、直さなければ〝悔い改めた″とはいえません。新たに直しなさいという意味です。
 では、皆様の人生の中で、悔い改めの経験は何回くらいありましたか? そして、もし何回もあったとしても、それを本当になおしましたか? 先程申し上げた通り、自分は悪かったと思い、それをなおした場合のみを 「悔い改めた」 と言います。いつも同じことを繰り返してしまうならば、それは「悔い改めた」ではなくて 「反省した」 くらいのものになります。
 悔い改めは素晴らしいことです。15年前位でしょうか。私が日本に短い滞在をしていたとき、テレビで 『猿でも反省は出来る』 というコマーシャルがありました。反省は誰にでもできます。しかし、反省したから悔い改めた、とはいえません。悔い改めるというのは、とても心が痛むことです。なぜ私はこんなものに過ぎないのかと思い、心がとても痛みます。ある意味では涙がでるし、怖くもあります。どうしたらよいのかと、とても悩みます。こういう経験がなければ、まだ悔い改めの経験はなかったということになります。
 では、許しの秘跡は何なのでしょうか? 許しの部屋には悔い改めの気持ちで来る人もいるでしょうし、義務的に入る人もいます。無理やり入らされる人もいます。罰せられるのではないかと思い、嫌な気持ちで入る人もいます。しかし、私たちは、許しの秘跡自体がもっている素晴らしい恵みをわかっています。ただ、悔いて直そうという心で許しの秘蹟に与からなければ、結局また、同じことを繰り返してしまうことになると思います。多分、悔い改めるための自分との戦いは死ぬまで続くと思います。
 悔い改めることを一言でいうと〝恵み″です。一番素晴らしい恵みです。望んでも自分ではできないのが悔い改めるということです。私たちが求めなければならないのは、悔い改める心をお許しくださいという気持ちを持つことです。そのような心の働きは、自分の全てを使って動きます。心が働くためには、頭も体も全てが動かなければなりません。これが悔い改めです。方向を完全に変えるということです。「悔い改めました」 と軽く言えるようなものではありません。
 洗礼者ヨハネが告げたのも、イエス様が告げたのも、その前の預言者達が告げたのも全て〝悔い改め″でした。今の時代にマリア様が出現しておっしゃるのも〝悔い改め″です。悔い改めは、結局人類にとって最後までの課題です。教会も信徒も信者でない人も、あらゆる全ての人にとって、命がある限り、悔い改めの許しを願う気持ちは必要です。それは恵みによって注がれる心だからです。一度でも悔い改めの経験をしたら、痛みよりも与えられる喜びのほうが大きく、探しても表現の方法が見つからないくらい素晴らしいものなのだと気づくでしょう。
 今日のミサを通してもう一度振り返ってみましょう。そして、振り返ることと反省することにより、本当に自分の全てが変わるくらいの信仰的な悔い改めの体験がイエス様のお恵みによってできるように祈りましょう。  

                                           ありがとうございました。
 

                      印刷用ページ(PDF PDF文書) 
このページの先頭へ                                   年間第15主日 金 大烈 神父   2008年7月13日(日)
    
                   ≪イエス様の片想い(片恋い)≫      
 おはようございます。
 今日の福音のテーマは “良い土” でした。“よい畑” “肥えた土” “肥沃な土” です。弱くも、枯れる事も、荒れる事もない、その様なきれいな土地を意味します。この世の中にそんな土地があるのでしょうか。絶対枯れない、絶対雑草が出てこない、いつも豊かな土地。そういう土地があるのでしょうか。
 もちろんこの福音で言われている “土地” は “心” の事を言います。弱くもない、変わることのない、その様な心があるのでしょうか。実際にあらゆる聖人達も、色々な試練、誘惑に遇いました。そして使徒12人も同じ過程を通りました。ましてやイエス様ご自身も誘惑と試練の内でご自分の人生を送りました。
 結論としては、“良い土、肥えた土地” はもとからあるものではなく、“耕された土地” を意味します。“作られた土地” を意味します。豊かな自然の中の肥沃な土地も、人間の手が入らなければ、それは “荒れ野” となってしまいます。結局 “耕す” 事です。“作る” 事です。いつも耕さなければならないのが私達の心ではないでしょうか。
 ある人は 「私はしっかりとした信仰があります」 「私の信仰は揺るぎないものだから心配しなくてよい」 という愚かさをみせる人もいます。私達の心の畑というものは、毎日何かをしなければ、枯れて、荒れてしまいます。特に信仰の面ではその様なことが強く現れます。そうしたらどうすればよいのでしょうか。この心をどの様に耕せばよいのでしょうか。
 簡単です。ある意味で信仰の道はものすごく簡単で単純です。それは何でしょうか。毎日 “新しく始めようとする心” があれば結構です。私達は毎日いつも “新しく始めなければならない” という意識が何よりも必要だと思います。その中で倒れるでしょう、間違えるでしょう、失敗するでしょう、傷つくでしょう。色々な事があると思います。しかし私は 「今日も、与えられたこの時間も、自分の信仰の、心の畑の為に新しく何かをやろう」 とする覚悟が何よりも必要ではないかと思います。
 さあ、皆様、片想いってどういう意味ですか。分かっていますよね。片想いの経験のある方、手を挙げてみて下さい・・・。わかりました。こういう経験がない方は少し悲しい方ですよね。 私自身の歴史の中にも片想いはありました。その片想い、もっと強く言えば、“片恋い” と言えるのでしょうか。
 “片恋い”によっていつも傷つく方は誰かご存じですか。“片恋い” によって毎日辛い思いをなさっている方こそイエス様ではないでしょうか。いつも “片恋い” をもって皆様を見ているのですが、相手が気が付かない。いつも知らんぷり。何とか自分の心を現そうと毎日呼びかけているのですが、私達は気が付かない。司祭である私も何パーセント、あの方のみ旨に気が付いているのでしょうか。皆様はどうですか。
 信者である私達がこの様な状態なのですから、イエス様を知らない人達を見られるイエス様のその “片恋い” の心はどの位辛いのでしょうか。きっともどかしいのでしょうね。信仰というものは、“返事” がなければならない。呼びかけに対して答えなければならない。それが信仰の実践だと思います。
 振り返ってみましょう。私は神様から与えられた、守るべき、すべき掟に対してどの位忠実にやって来たか。あの方に耳を傾けようとしたか。今の私に、イエス様が一番望んでおられるのは何かを考えた事があるのか。考えてみましょう。皆様も私も “片恋い” で終わってしまったら悲しいことです。実を結ぶべきです。人間は心理的に、出来るだけ早く実が結ばれる姿を見たくなります。見たいです。しかしその実を結ぶ為には、まず心を込めて “耕す” 事が大切です。“耳を傾けようとする心” “自分が間違えたら潔く認める心”。イエス様一番望んでおられる “その愛を体験しようとする心”、それが何よりも必要だと思います。基本的な事を守りなら、私達が信仰の生活を送れば多分 “片恋い” “人恋い” で悩んでいらっしゃるイエス様を救うかも知れません。
 いつも言いますが、私達が今この時、神様に願うわけではありません。神様が、イエス様が私達の為に祈っています。願っています。この片恋いの心を出来るだけなくす様に私達が応えましょう。それが信仰の生活ではないでしょうか。そして、その中で感じた事を、日々の生活の中で現す努力も必要ではないかと思います。
 信じて下さい。皆様をイエス様は今ももどかしい心で愛しておられます。それを感じることが出来たら、私達は恐れる事は何もなくなると思います。この心で、このミサを捧げながら、私達が新しい信仰の道を歩もうとする覚悟を強くする事が出来るように祈りましょう。
                                           ありがとうございました。
     
 

                      印刷用ページ(PDF PDF文書) 
このページの先頭へ                                               週日の説教       金 大烈 神父   2008年7月8日(火)
    
                   《神様の働き手となりましょう》
 旧約の聖書でイスラエル人が犯した一番大きい罪は何でしょうか? 創世記から最後までこの罪はずっと続けられます。それは偶像崇拝です。今日のホセアの預言書11節でも、偶像崇拝をするイスラエス人について訴えています。
 では、今のこの時代の偶像には何があるでしょうか? 人によっては、お金や名誉や容姿等。整形手術を受けて形をよくしようとして、鼻を整形したら目が気になり、さらに目をなおしたらあごが気に入らない。このようになる若者がけっこういます。偶像は、人によってみんな違い、いろいろなものがあると思います。
 今日もう一度、自分にとって神様を越える偶像となっているものは何であるか、それが本当に神様よりはるかに勝るものなのか考えてみましょう。神様にいただいたこの命より勝るものは何なのでしょうか。自分が意識しないまま、ただ好きなだけでついていったものが本当に私たちが求めなくてはいけないことに邪魔になっているのではないかを考えてみたいと思います。
次に、今日の福音(マタイ9・32-38)には、何のメッセージがあるでしょうか? 最後にイエスさまが、「働き手が足りないので、収穫の主である神様に働き手を送ってくださるように祈りなさい」と言っています。それはどういう意味でしょう? 働き手とは、狭い意味では司祭とか修道者になるかもしれません。しかしこれは私たち全員に言っていることですよね。働き手とは、神様の存在、神様の能力、神様の愛、御心について述べ伝える人達のことです。そして、その述べ伝える働き手が少ない、足りない。
 結局、私たちも働き手です。みなさまも私も。では、その働き手になるための条件として、何が一番必要なのでしょうか? 普通の人とは違う何かがなければいけない。それは、何でしょうか? やはり喜びでしょう。知らない人から見て、あの人には何か嬉しく見えるものがある、ということでしょう。私たちの日々の生活の中に喜びが見えなければ、私たちは自分の信仰について反省すべきではないかと思います。司祭も必ず信者の前で、そして信者でない人の前でも笑顔を見せます。それは、わざわざ作るのではなく、イエス様のみ言葉によって、イエス様のくださった恵みによって、自然に出される喜びにならなければいけないと思います。信者の人たちも全く同じだと思います。たぶんみなさまの隣の人々は信者ではないと思います。その人たちと少なくても一日1回くらいは顔をあわせるでしょう。その時、習慣になっている建て前の顔ではなく、「何をしても何を聞かれても何を言われても、あの人の中には何か喜びの輝きがある」、そういう気持ちを起こさせるのが、働き手の役割ではないでしょうか。そのために何よりも私たちが考えるべきことは、「信仰の生活をしながら、本当に喜びを感じながら、自分に与えられた全ての一日を生きているか」です。他の人達より、苦しみの顔ばかりしていたら私たちは働き手にはなれません。
 私たちはミサでご聖体をいただきます。笑顔を、喜びの顔を述べ伝えましょう。信者でありながらいつも暗い顔をしている人達に自然に喜びを映しましょう。そして、苦しくて疲れるはずなのになぜいつもニコニコしているのかと聞かれるような福音的な生活をしましょう。
 今日のミサでもご聖体をいただきます。ご聖体は毎日ただ食べてしまうごはんのようなものでは絶対ありません。これは私たちの生きる力です。この力の意味を私たちが感じることができれば、作られた喜びではなく、自然に生じる喜びを得ることができると思います。それを求めることが信仰ではないかと思いました。     
                                           ありがとうございました。
 

                      印刷用ページ(PDF PDF文書) 
このページの先頭へ                                   年間第14主日 金 大烈 神父   2008年7月6日(日)
    
                 ≪信仰とは神様に全てゆだねること≫      
 おはようございます。今日読まれました福音の内容は、皆様が何回も読まれた箇所だと思いますが、もう一回読みます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」。やはり何回も聞いた箇所ですよね。「今日初めて聞いたと思われる方がいらっしゃいますか?」 沢山聞いたと思います。そしたら、自分は何があってもまずイエス様のところへ行って休もうとしたと思われる方がいらっしゃると自信を持って手を挙げて下さいませんか。幸いに何人かの方がいらっしゃいました。他の方はどう
でしょうか? 自分の知恵ですか? 頭ですか? それとも力で解決ですか? 福音の中でイエス様がおっしゃった全ての真理と言うみ言葉はものすごく単純で簡単です。
 「疲れたものは私の処に来て休んでください。私は休ませてあげます」。こういう簡単なみ言葉です。そしてカトリック信者なら誰でもこの言葉はわかっているはずです。何か問題が起こった時にこのような姿勢を見せないのは悲しいことだと思います。どう思われているのでしょうか? イエス様は本当に休ませてくださると思っているのでしょうか? そうしたらそのようになさって下さい。信仰というものはすごく簡単で単純です。複雑なものではありません。信仰というものは結局任せることです。「何があってもあなたは私の為に一番いい道を見せて導いて下さると信じます。今いろんな不安に陥っていても私はあなたにゆだねます」。これが生活、自分の生き方になることが信仰ではないでしょうか。
 よく考えてください、いろんな聖書のみ言葉を聞きながらここまできました。その聖書のみ言葉の中で本当に自分の生き方の基準になるみ言葉はいくつくらいありますか? あったとしてもその基準に合わせて、どのくらい歩んできたでしょうか? 口だけで信仰について話すのは、若者がよく口にする言葉で “やばい” です。信仰という物は唇ではないのです。まず心から始まれば反応は自然に現れます。私達の共同体の沢山の方々が福音的に生きていることを分かっております。しかしもう一度今日の福音を通して考えてみましょう。私達はみ言葉通りの生き方をしようとがんばってきたでしょうか? 何か問題が起きたときにみ言葉に頼ろうと思ったでしょうか?
 よく考えてみてください。信仰というものは簡単なことです、単純です。イエス様のみ言葉も簡単であり、単純です。今日の福音のように簡単明確にはっきりしています。「行ってもいい、行かなくてもいい、来てもいい、来なくてもいい」のようにあいまいなみ言葉は1節もありません。やるべきか、やってはいけないかをはっきり言っています。そのことを私は理解が出来ませんと言うはずはありません。ただ私達が聖書を読んだり、聞いたりする時、心で聞くとしたら心で見ようとしていたらそれによって全て変わってきます。お願いします。今日のみ言葉とおりイエス様の所で休んで下さい。イエス様のところに全ての事を置いて下さい。任せて下さい。そうしたら違う結果が体験できると確信します。
 2番目の話は、昨日の夕ミサでもお話したことですけど、自分が深刻に感じた事なので分かち合いたいと思います。人生は劇やドラマだと言われることがあります。しかしその劇やドラマには脚本(シナリオ)がありません。その舞台にはいろんな人や物の関わりがあります。そして役もあります。役の中には、悪役をもっている人も主人公の役を持っている人もいます。今いろんな劇が進行しています。その劇の題目は自分自身の名前をつけたらいいと思います。例えば、私の場合には “金 大烈(キム デヨル)” という題目の劇が進んでいるわけです。この劇の中で、私金神父は日本の群馬にある太田教会という場所で今日9時半のミサに与り説教をしています。その教会には日本人の信者さんを含め、いろんな外国の信者さんがその主人公の話に耳を傾けています。皆様も皆様の名前を掲げた劇をしているところです。その劇は、改めて申しあげるとシナリオがありません。その劇を演出するのも、脚本書くのも結局主人公であるそれぞれの皆様です。
 私が申し上げたいことは、まず各自が主人公であることを悟って頂きたいことです。 自分に与えられた人生の主人公は自分だ! という強い心の確信が必要だと思います。それでわたしが主人公であることがわかったら、その後には良い主人公になろうという努力が必要じゃないでしょうか。結局、劇というものは、必ず終わりがあります。その終わりが悲劇になるか、ハッピーエンディングになるか、それは主人公である私達によって変わります。悲劇の劇は見たくないです。その劇を見ても感動する人もいませんし、逆に気持悪くなります。しかし感動する劇・ドラマを見たら自然に涙が出て清い心になります。その主人公が自分だったらなんという幸せでしょうか。
 神様は皆様の名前が付いている劇を見ていらっしゃいます。その劇でいろんな良い御心を表しながら主人公を支えています。しかし主人公である者がそのみ旨に気が付いているかどうかは主人公の心がけによって変わります。「いい劇をつくりましょう」。誰かがやってくれるものではないのです。それは自分の中で自分が一番すばらしいと思っている道を歩むことによって変わっていきます。やっぱり人生はドラマです。終わりがいつかはわかりません。だから生きている今、最善を尽くすのです。そしてやりがいを感じることによって周りの人々が一緒に笑顔を見せる。それって最高じゃないですか?
 皆様、あなた方は主人公です。ご自分の人生で絶対いなければ出来ない劇の主人公です。その主人公の役割を信仰のうちに果たしましょう。それこそ私達が見ようとする結末じゃないでしょうか。
 お願いします。あなた方は神様から主人公として愛されています。周りの人ではありません。周りの人々を幸せにさせる役を持っています。それによって自分も幸せになります。そのすばらしい役(主人公)であることをいつも自覚していて下さい。
                                           ありがとうございました。
    

                      印刷用ページ(PDF PDF文書) 
このページの先頭へ                                               週日の説教       金 大烈 神父   2008年7月1日(火)
    
                        《預言者としての務め》
 今日の第一朗読(アモス3・1-8)の主人公はアモス預言者です。
 旧約聖書を読むといろいろな預言者達が出てきます。その預言者たちの共通点は、あまり良い暮らしができなかった、ということです。なぜならば、ほとんどの預言者達が、権力を持っている者に逆らう話をしてしまったため、権力を持っている人々の立場ではそれがよいものに見えなかったからです。とにかく旧約の預言者達の中で、与えられた寿命をまっとうした人はほとんどいません。“預言”というのは間違えたことに対する「それはいけないのですよ」という叫びだから仕方のないことなのかもしれません。
 私たちは、洗礼を受けるときに三つの務めをいただきます。一つ目は【司祭職】、二つ目は【王職】、そして三つ目は【預言職】です。今日みなさまと話し合いたいのは、預言者となることについてです。
 昔、予言というのは、不思議な力を持って未来のことを読み、現代に住んでいる人たちに話すことをいっていました。しかし、神学的な預言と言う言葉は、そのような、前もって分かることを話すことではありません。まず、過去の歴史を見て、それから現在動いている様子を見ます。そして、過去の歴史からみて、現在のこの様子はいけないということを判断し、未来を推し量ります。「私たちの祖先はこのようにしたために、このようなよくない経験をした。だから、私たちもまたよくないことに襲われますよ」と叫ぶのが、預言という言葉の意味です。何か素晴らしい不思議な力をいただいて預言をするのではなく、現実的に過去の歴史を振り返る心があれば私たちは自然に預言者になれます。
 そういう意味でカトリック信者は、洗礼を受けたとたんに預言者にならなければならいのです。神様が与えてくださったその勤めとして、預言者のように過去を正しく読み、今の状況を見て、このようにしてしまったらよい結果となるかどうか、判断する能力を持つべきです。自分中心の狭い目で世界を見ることではなく、私の先祖であり、家族であり、兄弟であった全ての人類の歴史を見ることです。それによって、「これはよくないことだ」という意思を持って叫ぶのが預言者の姿です。
 カトリック信者である私たちはいつも預言者である使命を意識しながら目覚めていなければならない、そしてそのことをいつも考えてみなければならないと思います。
 この世の中は、よくない勢力が力を持ちやすいです。なぜならば、優しい心を持っている人たちは権力から関心を捨て、避けようとしているからです。この世界をイエス様が見たらどれだけ悲しまれるか。正しい道を自分の意思で歩もうとする心が、私たち自身にも必要ではないかと思いました。
          
                                           ありがとうございました。

2008年
6月1日 6月8日  6月10日 6月19日     6月15日(日)、6月22日(日)の【神の種】は休載します。
                      印刷用ページ(PDF PDF文書) 
このページの先頭へ                              聖ペテロ 聖パウロの祭日 金 大烈 神父   2008年6月29日(日)
    
             ≪弱さを認めることが信仰の始めであり、終わりです≫      
 おはようございます。まず、ペトロ様とパウロ様の洗礼名を持っている方は手を上げて下さい。立ち上がっていただけますか? この四人の方のために温かい拍手をお願いします。ありがとうございます。
 この四人の方が持っていらっしゃる使徒ペトロとパウロがどのように偉大な方だったか皆様に説明させていただきます。質問します。「自分は弱い者だ」 と思われる方は手を上げて下さい。日本人だけが手を上げましたね。どういうことでしょう、これは(笑)? 皆様御存知のようにペトロの仕事はガリラヤという湖で魚を取ることでした。平凡な普通の人でした。パウロはどういう方でしたか? 結構良い環境で育ち、良い環境の中で勉強し、自分の民族のために良いことをしようと野望を持っていた人でした。その一環としてイエス・キリストという人物に付いていく人々、信じている人々を迫害していました。迫害者でしたね。
 この二人の共通点は何でしょうか? 一言で言えば “弱さ” でした。聖書の中で述べているようにペトロは人間的にもそれほど信頼感のない人で、自分のプライドを守るために自分がまちがっているとはっきりわかっていても 「自分は正しい」 と言い張る気の強い人でした。「私は絶対イエス様を裏切らない」 と堅く誓ったのに三回も破りましたね。そしてその後ものすごく泣いて後悔したけれど、最後にゴルゴタの丘までは行けなかった。怖かったのです。イエス様が死んだ後も逃げて隠れていた。これが使徒ペトロの人間的な姿です。使徒パウロはどうでしたか? 何でもできる自分にプライドを持っていろいろなことをしていた。自信満々でした。聖書によく表れているようにその人柄はいつも自分を誇ろうとする傾向がありました。新約聖書全般を見ても 「私は神様の僕です。あなたが高くなって私が低くなるのが私の望みです」 と言いながらもいつも自信満々で自分を誇った。そういう人柄を持った人でした。ある日ダマスカスへ迫害するために行く途中、馬から落ちて目が見えなくなったんです。そして自分が迫害しようとした人々に助けられました。その時、イエス様に出会いました。
 今日の第一朗読ではペトロが迫害されているところが読まれました。第二朗読ではパウロが迫害されて自分の命がもう長くないことを語っています。福音は弱虫だったペトロにイエス様が 「私はあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは天上でも解かれる」 と約束される個所でした。二人ともある時転換点を迎えます。何の転換ですか? 自分の弱さを全部捨てて、ただ一つの道を歩むことのできる力をもらう転換です。転換点を迎えさせたのは誰ですか? 神様、イエス様です。私達がこの二人を通して考えなければならないことのひとつは私達は希望を持たなければならないということです。又、皆様の中で 「私は弱い」 と思われる方は手を上げて下さいと言った時、ほとんどの人が手を上げました。それは神様に選ばれる特別な愛を持っていること、神様に選ばれる可能性が示されているということです。
 皆さん、ちょっと私にも聞いて下さい。「あなたは弱いですか?」 「はい、私は弱さの本物です」 私は弱く見えますか? 見えないでしょう? でも自分のことを告白しますと結局人間的に霊的に成熟するためには、霊的に祝福されるためには神様は必ず御手を使います。「お前は偉そうな顔をしているけど本当は弱虫だよ」 ということを思い知らされることが必ず生じます。弱虫であることを認めさせるのはイエス様の役割です。人間は自分が弱虫であることがわからないのです。しかし、私達が祈れば、あの方に頼れば、あの方は 「あなたは私の力なしには何もできないよ。私があなたを赤ん坊のように抱きしめなければ」 ということを悟らせて下さる。これが一番必要な信仰ではないでしょうか。
 老いることも弱さです。病気にかかることも弱さです。卑怯な心も弱さです。淋しがるのも障害を持っているのも弱さです。こういうあらゆる弱さによって私達は強められます。信仰によって! これを意識して下さい。
 イエス様は誰よりペトロの人柄をよくわかっていました。この人がどれほど弱虫であるかわかっていた。それなのにイエス様はペトロに天国の鍵を預けた。その理由は何でしょう?それはペトロには私達すべての人々の姿が表れているからです。
 まず自分の弱さを認めることが信仰の始めであり終わりです。この体験を通らなければ 「私は信仰の生活をしています」 と言いながら、まことの味を味わうことはできないのです。“弱さ” は恵みです。弱さを認めること、これが一番すばらしい勇気だと思います。この祭壇に立っている私はいつも震えています。「今日皆様に何を話せば良いか。ある人が誤解していることを何と説明すれば納得してもらえるか」 と。震えることなしに、怖がることなしに勇気ある行いはできません。自分に与えられている弱いところを愛して下さい。なぜならそれによって皆様の救いが始まるからです。結局みんな老けます。弱るんです。これが人間です。他人に「私は良い人間だよ」「私は何でもできる」と言う必要はないんです。もし私が何かできたら「あの方が助けて下さるからできました」というへりくだる心が何より必要ではないでしょうか。私達は神様の前では死ぬまで未熟なものです。自分が未熟であることを認めることができたら、自分より少し足りないところを持っている人に対してもっと寛大な心になれるのではないでしょうか。
 使徒ペトロとパウロの洗礼名を持つ方、その他の方もそれぞれ聖人の名を持っていらっしゃいます。それは格好良く見せるためにつけられたのではありません。「その聖人の模範に見ならう生き方をして下さい」という教会の切実な願いなのです。私達が持っている洗礼名についてもう一度考えてみて下さい。自分の洗礼名にふさわしい生き方をしているか。その模範に倣おうとしているか。その名にふさわしいものか振り返ってみましょう。
 皆様、何か迷いがあるかもしれませんが、神様、イエス様はそれぞれの皆様に今も呼びかけていることをよくわかっていただきたいのです。
                                           ありがとうございました。
     

                      印刷用ページ(PDF PDF文書) 
このページの先頭へ                                              週日の説教       金 大烈 神父   2008年6月19日(木)
    
              《父である神様の御旨に従い、許しあいましょう》
 今日、皆さんと分かち合いたいことは、二つの言葉についてです。一つは “私たちの父”、そしてもう一つは、“許し” という言葉についてです。
 私は子どもの頃、主の祈りの中の “私たちの父” という言葉がものすごく気に入っていました。神様に対して、一番完璧で単純、そしてその意味を分かりやすく表現している言葉だと思います。そして青年になってからは、“誘惑に陥らせず” という祈り。司祭になっていろいろな人々の難しさを見てからは、“今日の日ごとの糧をお与えください” という言葉が目に入りました。そして全体的にいつも気に入っている言葉は “私達がある人を許したように私たちの罪も許してください” という言葉です。
 神学者達は、神様について、いろいろ説明、解釈をしようと理論を作って出してきました。昔からいろいろな神様について様々な解釈や解説が出ています。しかし、イエスさまが紹介してくださった神様の存在は、神学者達が述べたような複雑で難しい単語は全然使わないものでした。簡単明瞭で子どもが聞いても、お年寄りが聞いても、病人が聞いても、健康な人が聞いても分かりやすい言葉でした。それは “私たちの父” という言葉でした。
 皆さまは、神様のことを本当に父、お父さんだと思っているでしょうか? もちろん親からいろいろな傷を受けた人、特に父親から傷を受けた人にとっては、お父さんのイメージは辛い思いを起こさせるかもしれませんね。しかし一般的に父といえばそれは柱であり、私たちをいろいろなことから守ってくれる屋根のような、そして山のような、そしていつも私たちを見守ってくれる、そういう存在のイメージです。
 私もそうです。子どもの頃から父がいる時といない時では全然気持ちが違います。“私たちの父”。私だけの父ではなく、私たちの父。このあたりは完璧な表現だと思います。それをよく黙想してみますと、自分が嫌っている人も自分の父に対して “自分の父” と思っている。そう考えると自分でも知らないうちに寛大な気持ちになれる気がします。
 私たちにとったら神様は父です。狐やたぬきや蛇のような小さなものではなく、あらゆる力を持ちながらもいつも譲る姿の父。父には、何でも頼むことができます。過ちがあっても自分の息子や娘を見るような心で私たちを見ていてくださいます。そういうことを私たちの心に意識させられれば、率直な許しの準備が出来ると思います。論理的に考えて、父はこういう存在、こういう存在だといってしまうと、純真な心で近づくことが難しくなります。私達が信じているイエス様は、御言葉の中で、神様を信じ、人を許すようにと言っています。
 2番目は、喜びの中での許しということ。イエスさまが教えた主の祈りの中では、まず、この世の中が御国のようになるように、神様の御旨がこの世の中でなしとげられるように、と神様のことを考える祈りがあります。そして日ごとの糧、誘惑に陥らないように、が最後。その前に、私達が、負い目を持っている人を許したように、私たちの罪・負い目をお許しくださいという祈りがあります。
 なぜイエスさまが許しという単語を入れたか、私たちは考えるべきではないかと思います。結局一番難しい言葉です。そしてある意味で一番やさしいことです。しかし一番やさしいことでありながらも私たちはそれが上手くできなくていつも自分を壊しているのではないでしょうか。
 少し違った目で見てみましょう。すると、何でもないこと、記憶にも残らないようなことに命をかけて怒りを表す自分の姿が見られます。そうしたら、私たちは死ぬまで神様の前では赤ちゃんだなという気持ちがします。
 いつか私は、日本の教会で時間があれば、主の祈りの日本語の訳を変えたいと思います。「私たちの罪をお許しください、私たちも人を許します」。これは逆な解釈です。これでは、条件つきです。「あなた方が許さなかったら私の父である神様はあなたを許さない」、という注意と説得がイエスさまの訴えです。それなのに、「私たちの罪を許してください、そうしたら私も許します」 となっています。なぜこのような解釈が出ているのか分かりません。聖書の中でも 「負い目を許しましたように私たちの負い目も許してください」 ときちんと書いてあります。
 私たちは必ず罪の中で生き続けます。だから、必ず許されなくてはなりません。お父さんである神様には、「あなたが先に他の息子、娘達の罪を許したから私も父の心であなたを許す」、と言う願いがあるのではないかと私は思います。結局いろいろなことにより、憎まれる人より憎む人のほうが辛くなります。こういう簡単な心理について私たちは悟りながら意識的に練習する気持ちが必要ではないかと思います。
 今も私は神様に特別に感謝することがあります。それは遺伝的なことではないかと思います。個人的な告白になりますが、皆さまに話してもよいのではないかと思います。私が生まれてから、父が神様のもとに呼びかけられるまでの間に、父が人を憎む姿を一度も見たことがありません。それは本当に不思議でした。政治的なこと、家族的なこと、いろいろなとんでもないことで、父が人から責められるところをよく見てきました。お酒は飲みました。でもすぐに自分の部屋に行って祈る姿を見せてくれました。母と私たちは、「お父さんはそんなふうに言われて腹が立たないのか」 と言い、私たちのほうが腹を立てました。しかし父は、本当に死ぬまでそういう姿を見せてくれませんでした。それが意識的なものか、生まれつきの神様からの賜物なのか、それは分かりません。私も人間ですから憎んだ人はいます。しかしそれが頭に残っていない。そして振り返ってみると本当に憎んでいる人がいるか覚えていない。これは神様からいただいたよいところだと思います。相手はわたしを避けようとするけれど、私には、あの人はなぜ私を避けようとしているのか、と不思議に思われるくらい、すぐに忘れてしまいます。ですから適当に頭が悪いこともよいことです。
 とにかく皆さま、私たちに憎しみがなければ、今より3分の1くらい減らすことができれば、この世の中は変ると思います。ですから信者である私たち、神様の御旨をはっきり分かっている私たちから少しずつ許しあう模範を見せようとすることが大事なことだと思います。
                                           ありがとうございました。

                      印刷用ページ(PDF PDF文書) 
このページの先頭へ                                              週日の説教       金 大烈 神父   2008年6月10日(火)
    
                    《塩が塩気を失えば捨てられる》
 皆さん、今日から話が終わったらすぐに共同祈願に入ります。あまり自然に祈る練習ができていない感じがします。自由祈祷で自分の気持ちを自然に簡単な形で少しずつ祈り始めたら何とか上手く祈りを求めるようになれるのではないかと思います。ミサというものは、私達が共同的に自主的に意思を表せるようなものだと思います。司祭も信徒もお互いに積極的に与る、そういうものではないかと思います。
 今日の福音はあまりにも有名です。塩が塩気を失ってしまうと外に捨てられ人々に踏まれると言う話です。まず誰に対してイエス様はこのような言い方をなさったかを説明します。イエス様は、前に立っている人々に厳しく警告をされています。
 イエス様の復活を信仰として、体験として信じてきた人々の初めての集まり、それが初代教会という共同体です。その教会が動き始めたとき、いろいろな迫害が始まりました。代表的なものはローマ時代の迫害です。その迫害は、コンスタンティヌスという皇帝がローマの宗教としてカトリックを認め、その発表をして終わりました。その時悪魔はどのようないたずらをしたでしょうか。迫害が終わり、人々は平和な時代が来て信仰を満喫できると思いました。しかし、権力のあるローマ皇帝がカトリックをローマの宗教として認めたことにより、いろいろな機会主義者が自分の出世のためにカトリック教会に入りました。純粋に迫害を受けながら生きて来た人々は静かに今までの生活を続けました。しかしそれを利用しようとした人々がいて、その中には聖職者になろうとした人がいたため、中世期、カトリック教会は腐敗してしまいました。実際にカトリックの司祭や司教は、権力で何でも出来る立場になりました。だからお金をだして司教職を買ったり司祭になろうとしたり、ワイロが行われたり、司祭はよくないものとなってしまった時代でした。
 時代は変わりましたが、塩が塩気を失ってしまったら何の役にもたちません。それを見ている人にとっては自分がどちらに向かうべきか方向感を失ってしまいます。
 今日の福音を読んでお願いしたいことは、皆さま、本当に純粋な心で教会の指導者達のために心より祈ってほしいです。その祈りがあれば、その人はこの教会の信徒を正しく引っ張っていけます。日本の教会は、けっこう聖職者に対して批判的です。そして尊敬される司祭も少ないです。司教様に対しても基本的な尊重感が失われていると思います。いつも私は言っていますが、父親が子ども達に正しい必要な権威を失ってしまうとその家庭は壊れます。教会も全く同じです。司祭や司教はお父さんの役をします。お父さんがお父さんらしく見えないと子ども達はどのようについて行けるでしょうか?これはどちらのせいであるとも言えません。ただこの福音を読んで、これから私達がもう一回考えてみるべきなのは、やはりいろいろ足りない面を持っている人間が召し出しに答えて司祭職に登ること。その人が司祭として最後まで生きて行くためには祈りが必要であるということです。一人の司祭が誕生して司祭として墓に入るまでにはどのくらい難しいことがあるか、想像できると思います。ですから冷たい目で見るのではなく祈ろうとしてください。そすれば、聖霊が必ず美しい共同体、教会にしてくださいます。もちろんいろいろな失敗はあると思います。もし気にいらない司祭でもその人のために、ロザリオでも何でもお祈りをすれば、神様はきっとその人のことをかわいがってくださいます。私たちは人に対してもこのような考え方で見ることが大切です。
 二番目はもう少し広く考えます。私たちは信者ですといいながら信者らしくないところを持っている場合があります。信者らしくないということは塩気を失っていることです。信者なのにいつも暗い顔をしている。いつも固い話、けんかになるような話をし、攻撃的な顔、言い方をする。誰かを助けてあげましょうというと、面倒くさい顔をする。これは信者の姿ではありません。ある意味で、いただいているご聖体を冒涜していることになります。私たちは神様とともに生きるため、優しくならなくてはならない、犠牲を払わなければならない、とイエスさまははっきりおっしゃっています。しかし私たちは利己主義的で自分の信仰をしっかり持てていません。私たちはしっかり役割を果たさないといけません。人々が私たちの顔を見たとき、体から香りが出ていて、なぜあの人はこんな顔をしているのか、と気になり 「あなたは何か信じていますか」 と聞かれるようにならないといけない、社会のほかの人々に対し明るくならないといけない、積極的にいろいろな人々のために温かい手にならないといけない。これは選ぶか選ばないかではありません。条件なしに行わないといけないことです。
 今日の福音は、塩に塩気がなくなれば捨てられる、光というものは隠すものではない、です。皆様が神様からいただいたいろいろな素晴らしい賜物は隠すものではない、それをみんなにも見せてほしいという、神様の気持ちです。このミサを通して考えましょう。私達が守らなくてはならないことを、固いものとしてではなく、温かい掟としてどのくらい実践しようとするか、意識があるか反省しましょう。そして足りないところがあれば悟らせてくださいと願いましょう。

                                            ありがとうございました。

 6月15日(日)、6月22日(日)の【神の種】は休載します。
                      印刷用ページ(PDF PDF文書) 
このページの先頭へ                                         年間第10主日 金 大烈 神父   2008年6月8日(日)
    
                        《信仰の喜び》
 おはようございます。
 (今日は追悼ミサも一緒に捧げています。本来主日の9時半のミサはここに与っているすべての信者のためのミサなので個人の追悼ミサをすることは出来るだけ避けています。しかし、故人の遺族の方はカトリック信者の方がいないため、私と遺族の方だけで追悼ミサをしようとしてもミサがなかなか進まないと思ったので今日はこの形で捧げます。
 ご遺族の方に簡単に一言申し上げます。もし、故人が残っている家族のために望んでいることがあればそれは何でしょうか? それは今生きている方が仲良く一生懸命に良く生きることではないかと思います。追悼ミサで亡くなった人のために祈ることは大切ですが、今生きている兄弟姉妹は心をこめて血のつながりや絆を大切にしながら一生懸命に生きる姿を見せること、これこそ亡くなった方が一番喜ぶ姿だと思います。
 このミサを通して皆さんにお願いしたいことは皆さんが故人のために祈ることと家族という特別に絆に対してその意味を深く感じてみる恵みの時間になってほしいことです。ありがとうございます)
                                           以上はご遺族のためにお話
 
 皆様と時間を過ごし始めて来月初め位が1年になります。今日の説教のために昨夜準備しながら思ったのは、1年経ち感じたことについて皆様と分かち合ってもいいんじゃないかということでした。実際に私が着任してからの約1年で皆様の中に色々な変化が見えます。それは肯定的な変化として、ものすごくうれしいことで私にとっては遣り甲斐を感じられることです。今日私は皆様に自分が持っている夢に付いて話したいです。
 その夢は1年前に申し上げた三つの司牧の方針、即ち “私達の共同体は祈られる共同体” “分かち合える共同体” “自分が味わった喜びを伝える共同体” ということと繋がる話になると思います。皆様も覚えていると思います。それはかなりかなえられていると感じています。しかし、まだ行くべき道は遠いと思います。もっと沢山の方が力を合わせ、素晴らしい信仰の共同体になって欲しいです。私たちの前には色んな困難さ、乗り越えなければならない難しさが待っていると思います。しかし、その時、正しいそして望ましい信仰に満たされている共同体ならば何も心配しなくてもいいと確信します。 そのためにふりかえって見ましょう。まず具体的に信仰を感じているのか、生きている意味と目的を感じているのか、自分にとってキリスト・イエスが生き方の基準になっているのか。
 イエス様が皆様の行く方向の中心になっていればどんな環境にいてもきれいに上手く行けると思います。ミサに来ている人で疲れた顔、苦しむ顔、悲しい顔が見えます。なぜミサに与っても信仰生活をしてもそこから救われないのか、なぜ暗い顔をしながら信仰生活しているのかそれが悲しいことです。いつも申し上げているように信仰は喜びです。喜びを感じられなければ面白さも感じられず、意味もわからないので喜びを人に伝えたい気持ちもなくなります。もう一回申し上げます。皆様は信仰の中で幸せになってください。本当に喜びを感じてほしいです。その喜びが自分のものになれば、その喜びは自動的に他の人に伝えられます。
 実際に私にはもどかしい気持ちが沢山あります。なぜ私ができるのに他の人は出来ないのか?なぜ自分が感じている喜びを他の人はわからないのか?そういうことを考えると息苦しくなります。皆様私の夢は必ずかなえられると思います。私にはそのようになる可能性、そして希望がよく見えます。いいえ、ただ可能性とか希望ぐらいだけではなく色んな変化の動きを実感しています。このカトリックの信仰、イエスに出会ったことを力強く感じてください。求めようとするものは与えられます。   
 勿論、信仰的に満ち溢れていてもいろいろな難しさは変わらずに立ちはだかってくると思います。しかしそれは問題ではありません。ある人は信仰があれば悪いことは自分の前に起こらないと思っているようです。それで一生懸命祈っていても自分の周りで理解できない悪いことが起きたら「私は神様に対して信頼感が持つことが出来ない」と言う人がいるかも知れません。それは信仰ではありません。私達が信仰で神様と結ばれても同じことは起きます。ただ同じ困難なことが起こってもその起こったことに対してどのような心で迎えるのかが変わります。このような難しさをどのように受け入れて乗り越えて行くべきかを考えながら自分の生き方が変わって行くのが信仰ではないでしょうか。
 多分、今日ミサに与っている皆様もいろいろ苦しみがあると思います。その皆さんの苦しみにイエス様はどのくらい躍起になっているでしょうか? 自分の力、頭で解決しようとすることには限界があります。信者らしく信仰者らしく神様にイエス様に頼ってみてください。ゆだねることが信仰です。ゆだねる時真の喜びが感じられます。沢山の方がこのようになることこそ、私が皆様に対して持っている夢です。
 私達の共同体は26ヶ国の信者の方が集まっています。今日の入祭の歌はインドネシアの青年達がきれいに歌ってくれました。第二朗読は韓国人の姉妹が朗読しました。日本語のミサでありながらフィリピン人、スペイン語圏、南米の人達が多く見られます。私達はこの方々とただ同じ信仰であるということによって兄弟姉妹としての家族になっています。なんの違和感もありません。この方々は日本に来て日本の教会の中で自然に自分の家という気持ちでミサに与っていると思います。これは恵みです。何の力でしょうか? 信仰の力ではないんでしょうか。私は毎ミサを通して皆様が信仰的にある程度満足できる生活が出来るように祈っています。それは皆様がわざわざ作られたことによるんじゃなくて、自然に心の底から湧いてくる心の働きを望むことです。
 この頃、教会で面談、家庭訪問をしていますが教会の信者の5割の以上の人が信仰の生活をしていません。皆様もその家族・兄弟姉妹のことが気になるでしょう? その家族・兄弟姉妹のために不安な気持がするでしょう? そうでしたら、まず、信仰の喜びに満たされるように努力して下さい。そうすれば、少なくても今いろいろな理由で教会を休んでいる家族・兄弟姉妹のために祈りが始まると思います。
 最後に言葉をまとめて見ます。私は望みます。 先ず、私たちが信仰の喜びに溢れること、そして、今教会を休んでいる人達も自然に教会に来て自分の力、苦しみを全部神様に出し、慰められ、励まされ、新しい心境を迎えられることを望みます。そのために絶対的にお祈りが必要だと思います。 私たち皆が “福音化” されて宣教の主役になりましょう。
是非、疲れたとき、困難が起きたとき、あの方にゆだねてみて下さい。必ず返事があります。この返事を信じながら毎日少しずつ進んで行くことが信仰の道だと思います。
 皆様にこの場を借りて1年間の感謝の心を伝えます。「本当にありがとうございました」 そして皆様と一緒に過ごすのは後長くても2、3年位だと思います。その間絶対忘れない絆、良い絆をお互いに残すために私も一生懸命頑張りますので、皆様も宜しくお願い致します。
                                           ありがとうございました。
     

                      印刷用ページ(PDF PDF文書) 
このページの先頭へ                                         年間第9主日 金 大烈 神父   2008年6月1日(日)
    
                 ≪私のこの行いはイエス様の御旨だろうか?≫
 おはようございます。
 今日の福音の中にも、少しきつい話が出ています。「『主よ、主よ』 と言う者が皆、天の国に入るわけではない」そして更に 「私は御名によって 預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡を行ったではありませんか。何故私を知らないふりをするのですか」 と続きます。しかし イエス様は 「あなたたちのことは全然知らない。出ていけ、ここから去れ」 と言われました。
 私達は自分の頭の中で自分勝手に考えながら、その考えに沿った生き方をします。自分の判断で生きています。ですから私がここでどんな話をしても、その受け取り方はそれぞれ皆様個人個人によって変わると思います。そして私達は教会で言われている、色々な施しとか奉仕の生活とか良いことを行っています。しかしその奉仕というものも、結局自分の考えの中に受け入れて納得してから、すべきかどうか自分自身で判断し、その様に動きます。そして 「隣人を愛しなさい」 と言われても、私達は 「気が合うか合わないか」「あの人とは気が合わないけれど自分が譲る」 というような、色々な自分の判断によって私達は共同生活を送っています。そうですか? 認めますか? 今日のお話のポイントは “何を優先的にするか” にあるのではないかと思います。
 さあ、もっと具体的に皆様に質問します。もし皆様個人の意志とイエス様の御旨と衝突したら、ぶつかってしまったらどうします? どうしますか?
 イエス様があなたがたに 「これをして欲しい」 と言われたことと自分のやりたいことが違う場合どうしますか? イエス様が 「あなたにこの犠牲を払って欲しい」 と言われたのに 「私は全然犠牲を払いたくない」そういう思いがあった時、その時どうしますか? 私は東京に行きたいのにイエス様に 「名古屋に行って欲しい」 と言われたら皆様はどうします?
 自分の判断によって私達は信仰も理解します。皆様の中にも、ある意味で神学者以上の知識や考えを持っていらっしゃる方もいるかも知れません。そして皆様の頭の中には、信仰に対して、イエス様に対して 「こういうものが信仰だ。こういうものがイエス様だ」というイメージがちゃんとつくられていると思います。しかし、もしそのイメージが本物と違ったらどうしますか?
 皆様、今日イエス様はこの様におっしゃいました。「天の国には天の父の御心を行う者だけが入るのである」。イエス様は私達に警告しています。
 私のことを少し告白してみたいと思います。私は自信満々でした。子供の時から何をしても容易に一番を取り、一番良く出来ました。体も心も頭もすくすくと育ち、何の問題もありませんでした。こわいものもありませんでした。自信満々でいつも、弱い立場にある人、力のない人、そして貧しい人達の前に立ち、導く者になるのだというプライドも持っていました。しかし、ある日突然、イエス様はその私を倒されました。私が一番自信のあったところを全て降ろされました。その時私はものすごく辛く、何故自分にこの様なことが襲って来るのか苦しみました。しかし永い時間が流れ、祈りの中でイエス様が私に聞かせて下さった声は 「おまえが今まで私の名によって色々なことをし、良いことをすることによって色々な評価を受けて来たけれど、結局私の名だけで、自分の満足のためにやって来たのではないか」という声でした。
 その時、私は完璧に悟りました。「あー、そうだった。私はイエス様の名によって色々なことをやって来たかも知れないけれど、その中心には 《イエス様》 ではなく 《私》 がいたのだ」 と。それを悟るのに10年以上かかりました。
 その後、私の人生はすごく変わりました。行きたくない所でも 「行って欲しい」 と言われたら行きます。休みたくても 「休まないで働いて欲しい」 と言われたら 「はい」 と従順に答え従います。
 私が皆様と分かち合いたいことはこの様なことです。必ずイエス様が皆様に望んでいる御旨というものがあります。その御旨に耳を傾けて下さい。受けようとしてください。それがなかったら私達は色々な良いことをしても、結局その中には一番大切な中身がないことになります。私達は信仰者としてキリスト者としてミサに与って、ご聖体を頂いて、色々な分かち合いが出来ても、その中でもし “イエス様のため” という、その様な心がなかったら、私達は結局倒れます。
 信仰というものは自己満足ではありません。神を語ることではありません。信仰というものは神様が自分に与えて下さった道を探していくことです。「あなたにとってこの道は一番良い」 「あなたが一番良くなるためにはこの道を歩まなければならない」 というあの方の御旨を聞き、それがどういうことかを求道者の様な心で探し求めるのが信仰の道だと思います。
 さあ、結論は簡単です。「主よ、主よ」 と主の名によって預言をしても、誰もが預言する能力をもらえる訳ではないのです。主の名によって悪魔を追い払っても、悪魔は誰もが追い払えるほど簡単なものではありません。その様な私達の努力を神様が貰っても、その心の中に一番大事なものがなかったら、それは何の役にも立ちません。
 イエス様は成果、結果について、そんなに大事にしないようです。イエス様が私達に望んでいるのは、私達が生きているプロセスです。過程です。“暖かい、愛に満ちた” 過程です。何の意味があって私達がこの過程、道を選び、歩んでいるのかをイエス様は見ていらっしゃるのではないかと思います。
 結論として申し上げます。私達は理想的なことをやっていても、その中に愛であるイエス様がおられなかったら、私達は正しい道を歩むことは出来ないことを意識して頂きたいのです。
 さあ、イエス様は愛、その愛がどういうことか、イエス様がどれくらい私達を愛しておられるか、そしてそれを私達が自覚しているかどうかを考え求めましょう。
                                           ありがとうございました。
  

2008年
5月4日 5月11日  5月18日
                      印刷用ページ(PDF PDF文書) 
このページの先頭へ                                         キリストの聖体の祭日 金 大烈 神父   2008年5月25日(日)
    
                         ≪ご聖体を頂くあなたに≫
   おはようございます。今日12人の天使のような子供達が初めてイエス様の体をいただくために前の席に座っています。昨日この子供達のためにリハーサルがありました。それはこの子供達が初聖体を受けるために何を準備し、どういう姿勢、気持ちで、今日を迎えるべきかについて勉強し、そして12人全員がきちん と赦しの秘蹟(初告解)を受けました。許しの秘蹟を授ける私はすごくうれしかったです。きちんと準備が出来てこの初聖体をいただいた記憶はき っと大人になっても忘れないと思います。
 昨日、準備の時子供達に例えを交えながらこんな質問をしました。「ミサに与かるために教会に行った時、姉さんとけんかをしたことを思い出した らどうする?  自然に全部忘れてそのままご聖体頂いても大丈夫かな?」 すると、子供達は「いいえそうではありません」 と答えました。そして「もしあなたの心の中で憎しみ、ねたみとかがある時、ご聖体をいただいてもいいのかな?」。 子供達は 「いいえ、そうではありません」 と答えました。時に子供達は大人に対して先生になります。
  私は定期的に赦しの秘蹟に預かります。それは私がいつもご聖体に接する立場にあるので、ミサのために自分自身をできるだけ清めようとしているからです。皆さんも昔、洗礼を受ける前にご聖体をいただくためには、私達がどういう心を持って頂くべきかについて、ちゃんと勉強したと思います。今はどうですか? その通りにしていますか? 教会の門に入る直前に妻と喧嘩しても平気で入って来てご聖体を頂いているのではないでしょうか? ミサ中に憎んでいる人が想い浮かんでいるのではないでしょうか? 習慣的に聖体拝領の列に並んで “キリストの体” と言われて手に受けて口に入れているのではないのでしょうか? 良く考えて見てください。私達が頂くご聖体が神様のイエス様の御体と実感できれば恐れさえ感じられると思います。
 今日のご聖体の祝日にあえて話さなければならないことがあります。なぜ聖堂に入ったら静かにして祈らなければならないのでしょうか? なぜ罪
を犯したら赦しの秘蹟を受けて、清められた純粋な心でご聖体をいただかなければならないのでしょうか? なぜ人と仲良くしなければならないでしょうか? いろいろな理由がありますが、その真ん中にあるのは聖体に対しての信仰です。
 今日の第二朗読の 「キリストの体を頂いた私達は沢山いてもひとつの体です」 という言葉は、私達はキリストの御体によって結ばれた兄弟姉妹であることを意味しています。赦しの秘蹟を受ける一番大きい理由はイエス様を自分のうちに受け入れたいということです。皆様良く考えて下さい、今日何ヶ月ぶりにミサに来た方もいらっしゃると思います。その方は聖体拝領の時に自然に列に並んでご聖体いただくべきでしょうか。昔から伝統的な大きな罪の一つはご聖体を冒涜することです。ご聖体は命の源だからです。勿論、厳密に言いますと、この世の中、資格があってご聖体を頂く人は一人もいません。ご聖体の拝領は資格の問題ではありません。私達がご聖体を頂けるのは資格があるからではないのです。ご聖体はイエス様がただご自分の愛を持って私達に下さった贈り物です。
 何度も強調して質問しますが、「聖体を頂くために必要な心はなんでしょうか?」 一つは 「謝っても謝っても私は罪びとです。すみません」 という心と 「それでもイエス様、今日も私のうちに来てくださって感謝します」 という二つの心です。この二つの心があれば皆様のうちにおられるイエス様を絶対に感じ歩み寄ることが出来ます。
 昔は日曜日のミサに預かることが出来なかった時は次のミサに預かる前に必ず赦しの秘蹟を受けました。今は時代が変わりゆるくなって一年に1回か2回しかミサに預からなくても平気でご聖体をいただけます。少し申し訳ない気持ちは起きないのでしょうか? 前に私は言いました。司祭はミサのとき一度見回してみると誰がミサに預かっているか、ミサに来なかった人が誰かをすぐ分かります。何ヶ月見えなかった方がミサに預かっている姿もすぐ気がつきます。今日ミサに来ている人、来ていない人、1ヶ月ぶりにミサに来た人も全部頭の中に入っています。長い間、ミサに預かっていない人にご聖体を授ける時、説明できない位、胸が痛くなります。このまま授けてしまっていいのか辛くなります。なぜなら、司祭はイエス様を守らなきゃならない使命も持っているからです。
 今日ご聖体の祝日に、この12人の子供達が初めてご聖体を頂きます。この初聖体を迎える子供達のお父さん、お母さんにお願いします。是非この子供たちの信仰の鏡になって下さい。あなた達が日曜日のミサに預からないで子供たちにご聖体について説明するのは嘘です、詐欺です。まず親として信仰の生活をして下さい。そうしたら子供たちは自然に習います。親がめちゃくちゃなのに子供達に祈りなさいと言うことは子供に抵抗感だけ大きくさせてしまいます。親としての役割は子供達にこの世の中をうまく生きて行く方法を教えてあげることです。その方法はなんでしょうか? それは私たちにとってのキリストです。その信仰を子供たちにいつも伝えて下さい。
 もう一度皆様ご聖体の祝日に考えましょう、自分にとってご聖体は何の意味があるのかをよく意識しましょう。疑いなしにイエス様の体だと思いながらご聖体をいただくように祈りましょう。ご聖体を頂いてから私のうちに生きておられるイエス様を意識しながら生活しましょう。
 私達は溢れる程神様の愛に恵まれています。その恵みに気が付かなくてはいけません。私のために今日もイエス様は殺されます。その教えを無駄にしないように私達も協力しなければならないことを意識しましょう。皆様、ある意味でこの世の中で一番求めなければいけない宝物をイエス様は毎ミサを通して下さるのをいつも覚えていて下さい。
                                        ありがとうございました。

                      印刷用ページ(PDF PDF文書) 
このページの先頭へ                                            三位一体の主日 金 大烈 神父   2008年5月18日(日)
    
                   ≪あなたの信じる神様ってどんな方?≫
  おはようございます。今日は三位一体のお祝いの日ですね。ちょっと質問させていただきます。皆様が信じている神様は何人いらっしゃいますか? 
  そうですね。一人ですよね。それでは信者でない日本の人に「神様って何人いるの?」 と聞いたらどう答えると思いますか? 「数えきれないですよ」 と答えるのではありませんか。あらゆる文化の中には宗教的な要素がしみ込んでいます。ですから文化というものは宗教なしには考えられません。日本の伝統的な文化、宗教的な心を考えてみますと数えきれないほどの神たちがいます。信者でなくて日本の文化の背景の中で育った人々にとっては、カトリックのイエスという存在も西洋から来た一匹の神にすぎないかもしれません。このような育った環境の影響によってキリスト教をたやすく受けられるかそうじゃないかが決まるんじゃないかと思います。日本では神社でも神様と言います。その中ではキツネも神になるしカラスも神になります。カトリック教会でも神と言います。キリスト教の信仰を全然知らないで、子供の時から高校生まで育ってきた人にとってイエスという人物は 「死んで神になった人じゃないの」 と言うだけの存在かもしれません。
 昔、日本でも、カトリック教会を “天主教会” と言っていた時代がありました。天主、天の主(ぬし)、ですね。ですから天主と言えば一般的に言う神と区別できて、全智全能の一番力ある神を信じているのだという感じがしますが。ある時天皇がいるのになぜ天主がいるのかと反対されて “天主” という言葉が使われなくなったという説があります。
 昼間や夜、この聖堂に祈りに来る人が結構います。そういう人の中には信者でない人もいます。カトリック信者だと思って話しかけてみたら 「私は日本の宗教しか持っていません」 と答えられたことが何度かあります。この方達にとってはすべてが神だから何処で祈るのも違和感がないのでしょう。それで自然にこの聖堂に入って祈るのでしょうね。
 さあもう一回質問させていただきます。信者でない人に 「あなたの神はどういう方ですか」 「イエスとはどういう人物ですか」 と聞かれたらどう説明しますか? 「聖母マリアって神なの?」 と聞かれたらどうですか? 「あなた方は何を信じていますか」 と聞かれたら? ある意味でとても基本的で根本的な質問です。しかし私達はその答えをどの位準備しているでしょうか?
  今日の福音でその答えが出ているんじゃないかと思います。 『神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである』 (ヨハネ3章16節)
  今日は三位一体の祝日。三位一体について私も説明できません。おそらく、三位一体の大祝日になると世の中の司祭たちは皆ストレスをもらっていると思います。それは、三位一体についてはきはきした説明が出来ないからです。理論的に説明しようと思っても納得させるのは無理です。三つなのに一人。私達の理性では理解できません。しかし私達は体験としてその中身を伝えます。もし 「神様ってどんな方?」 と聞かれたら、「今質問しているあなたも愛されている、あなたのために自分の息子さえ犠牲させることが出来る方。私達がその方を信じたら絶対滅びない。そして私達が最終的に求める永遠の命、終わりのない命を得られるのです」 と答えて下さい。
  このような答えが自然にでるためには私達にそのような信仰ができていなければなりません。私達が信じる神様は愛そのものです。その愛は自分のただ一人の子供を私達の罪のために犠牲にされる程の愛で、計り知れないほどの大きな心を持っている神です。敵の大将の首を切って、その復讐が怖くてそれを神として祭って拝むというような神ではありません。私達が信じる神はすべての神々やお化けさえ治められる、全智全能の一番力ある神です。このような強い心がなければ些細なことにも影響されてしまいます。少なくてもいろいろな物に引っ張られて、まっすぐに自分に与えられた道を歩きにくくなります。
  三位一体の難しい神学的な理解は出来ないかもしれません。しかし、三位一体の神様がどういう方であるかを私達は知っています。それは祈りと信仰的な体験、特に神様との出会いの体験を通して可能なことだと思います。
  御父、御子、聖霊、それぞれのなさる役割が違います。しかしこの三つの存在は一人です。一人である神様によって創造された私達もその神に似た者となる努力が必要です。神様は聖なる方ですから、私達もできるだけ聖なる者になる努力も必要です。又、神様は三つの存在が一つであると言われるぐらい一致しています。私達も一致しようとする動きが必要です。三位一体の神秘は祈りの中で愛の実践の中で体験できることではないかと思います。
  最後に私事ですが、私の母が先週の火曜、13日に私と一緒に日本、太田に来ました。私が数年前に国を離れる時一番気になったのは母を一人残して来ることでした。いつも母のことが心配になっています。毎日母のことをミサの中で思い出しています。その母と20数年ぶりに旅行しました。司祭になってからは初めてです。そして母の幼子のような笑い方を見ると幸せに感じました。しかし年のせいで背中は丸くなり、歩く時膝が不便そうな様子を目にするともどかしい思いもします。ですが今週の金曜、23日に韓国に帰るので、それまでできるだけよくケンカしながら笑いながら楽しく過ごしたいと思っています。
  皆様に伝えたいことは、「生きているうちに、良くしておくようにして下さい」 ということです。自分のために祈ってくれている人のために一生懸命やって下さい。夫婦、親子、兄弟・・・ 私が関わらなければならないすべての人のために最善を尽くして下さい。若者たち、ご両親が生きておられたら毎日電話して下さい。「電話代がかかる」 などと言わないで、何よりも大事なこととして考えてください。
  社会がますます深刻に淋しくなります。個人主義的になって兄弟の間でもいろいろなことで別れています。兄弟の意味とただ知合いの意味が区別できないような世の中になっています。もし意識があるなら意識のある私から電話をしたり手紙を書いたりしましょう。いくら一生懸命にやっても親がいなくなったら後悔するのが人間です。出来るだけ後悔する心を減らすためにも、ご両親によくしてください。そして、皆様のお祈りの中でも絶対忘れてはいけないのが親のための祈りだと思います。
                    
                                        ありがとうございました。

                      印刷用ページ(PDF PDF文書) 
このページの先頭へ                                         聖霊降臨の主日 盧 煕喆 神父   2008年5月11日(日)
    
                   聖霊降臨《希望に向い、希望のうちに》
 ある刑務所にいる人は、私が訪問するといつも笑顔で迎えてくれます。その人が出所できるまでには、あと20年以上もあるのです。その人の年齢を考えてみますと、60歳以上にならないと社会に復帰できないのです。それにも係わらず、その人はいつも希望に満たされています。彼は私に 「出所したら、それからは
良いことだけをして、社会に貢献します」 と言いました。そこで、私はその人が持っている希望とはどんなものか、と考えてみました。彼のまだこれから先の服役期間を考えると、希望どころか、絶望に陥るのではないかと思います。しかし、その人は、これから先20年の生活を考えるのではなく、その20年後に来る生活を考えているのです。つまり出所するまでのことを考えず、出所後のことを考えているので、希望に満ちているのではないかと思います。
 今日は、復活されたイエス様が、弟子たちに息を吹きかけられて、聖霊を送ってくださったのを記念する《聖霊降臨》の日です。イエス様は、弟子たちに 「父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣
わす」 と言われます。イエス様は、これまではご自分が、神様のご意志に従って宣教活動をなさいましたが、これからはその役割を、弟子たちにお委ねになるということを言われています。
 イエス様は全世界に行って、“よい知らせ” を伝えるようにと告げられた弟子たちに、聖霊を遣わして力づけられます。
  では、弟子たちは何を世界中の人々に宣べ伝えるのでしょうか? 彼等が人々に伝えることは、「イエス様は亡くなられたが、三日後に復活された」 ことなのです。つまり、イエス様を信じることによって、私達も永遠に生きられるという喜びを伝えるのです。しかし、その “復活” という言葉は、私達人間にはあまり理解できない感じがするのではないかと思います。
  先程話した刑務所にいる人にとって、刑務所の生活は決して生やさしいものではないと思います。そこでの生活は、自由もなく、いつも監視されて不便なことばかりだろうと思います。それにも係わらず、その人が今送っている、縛られた生活の大変さより、その後に来る自由な時間、自由な生活を考えて日々を過ごしているのは、本当に素晴らしいことです。そこに “希望” という言葉がなければ、待つことが出来ない生活だと思います。
 これから、私達は自分がイエス様に出会って、得られた大きな希望を人々に伝えられればと思います。私達の希望は、目先の事ばかり見たり考えるのではなく、目をもっと広く遠い未来に向けて、その未来にある限りない喜びの内で、未来を考えることです。ですから、私達は私達が持っている、その希望を周りの人々に伝えて、全ての人達が、希望のうちに暮らせるようになればと思います。
 しばらく、私達はどこで、その希望を見いだせるのか考えてみましょう。
 

                      印刷用ページ(PDF PDF文書) 
このページの先頭へ                                         主の昇天の祝日 金 大烈 神父   2008年5月4日(日)
    
                       ≪主の昇天の意味≫
   おはようございます。お元気ですか? 今日は何の日かご存知でしょうか? 主の昇天のお祝いの日ですね。しかし、皆様の顔を見ますとそんなに元気じゃない気がしますね。喜びの日ですので喜びを持ってミサに与かって頂きたいです。説教に入る前に一言を話しをしたいです。今日の答唱の内容は 「主は昇られた喜びの叫びのうちに」 でしたよね。しかし、皆様の歌の声は中身と違い、全然喜びがない声のように聞こえますね。もう一度皆様、笑顔で歌ってみましょう。そしていつも歌うときはその言葉の意味は何を表しているかを感じて歌って下さい。うれしい歌の時はうれしい気持ちを持ち、悲しい歌のときは悲しい気持ちで歌ってください。歌を上手く歌えばその歌自体が祈りになります。そして聞いている人にも祈りになります。いつも意識しながら歌いましょう。
   それでは、主の昇天の祝日は私達にとってどういう意味があるでしょうか? ただ、イエス様が天に上げられたということでしょうか? この主の昇天の祝日を迎えた私達は何を思い出せば良いでしょうか? 簡単に説明します。私達はイエス様のことを神様の一人子、御父の一人子と教えてもらって信じています。御父が人間の堕落した模様を見て、もどかしい心で自分の愛している息子を人間の形でこの世の中に使わしました。使わされたイエス様は御父からいただいたいろんな使命を全部果たし、十字架につけられ死を迎え、3日後御復活されて神様の形で天に上げられたということを主の昇天だと言います。主の昇天のことは未来のことを意味しています。私達はがんばっても、いい薬を飲んでもこの世の中では永遠に生きることは絶対出来ません。順番が互いに違うかも知れないですが、誰でも例外なく死にます。主の昇天の祝日に向かって私達が考えることは、イエス様によって示された新しい生命・生き方・変らない・終わらない命の世界を思い出すことです。主の昇天が私達に意味があるとすればそれは私達の終わってしまうこの世ではなく、変らない永遠の命の世界、新たな命を受けることであり、それを理解して、その新しい命を受けるために私達はどうすればいいのか、今過ぎてしまうこの世の中に執着しない方法は何だろうか、イエス様が見せて下さったその道をどうすればついていけるのかを改めて考えることです。そしていつか私達が行かなくてはいけない永遠の世界に希望を置くことです。主の昇天の祝日をもう一回振り返って見ましょう。今日私達が何よりも受け入れなければならない教えはこの過ぎてしまう、腐ってしまうこの世の中であまり欲張る姿で生きないことではありませんか。何の役にも立たないことに心を注ぐより、自分の霊的なところに傷つけるものは出来るだけ避けようとする決心が必要です。それが主の昇天の祝日にイエス様が私達に送って下さったメッセージだと思います。私達は極めて求めるものはこの終わってしまう世界ではなく、約束された新しい変らぬ恵みの新生活であることを心に刻んで頂きたいんです。
  もう一つについて申し上げたいです。4日前にあるブラジルの赤ちゃんが亡くなりました。その赤ちゃんは2ヶ月前に産まれつきの病で病院の世話をもらいましたが、結局亡くなってしまいました。赤ちゃんの親の仲間から赤ちゃんを火葬場に行かせる前に来てもらって、お祈りを願ってもいいかという連絡がありました。行ってみました。そこは葬儀場で赤ちゃんの棺の後ろに神道式の祭壇が飾られた所でした。入ると違う気が流れていることを司祭は感じます。とても気持ちが良くありませんでした。そしてそこで私は祈らなければならないことでした。なぜ親はこのような方法しか探せなかったのかと思い、本当に悲しくなりました。とにかく、両親に出来るだけ赤ちゃんの棺を教会の聖堂に運んでこられるように話し合ってもらいましたが、式場の関係で無理だったので、後で教会で赤ちゃんのためにミサだけ捧げました。お願いします。信仰は絶対お金と関係ありません。特に外国人は教会でお葬式したらお金がかかるとか、司祭呼んだら謝礼をしなければいけないと要らない心配をする場合があります。お金が欲しかったら私は神父に成らなかったと思います。お金の問題ではありません。なぜお金と信仰をつなげて考えるんですか。 赤ちゃんが死んで神様に呼ばれた時親が思い出すのはお金ではなくどうすればこの子をきれいに見送ることが出来るのかを考えなければいけないのです。個人的に日本語の納得が出来ないところがあります。それは金に‘お’という尊敬を表わす接頭語をつけるかということです。ただ金です。実際に金によって困る世界ではありませんか。教会の信仰さえお金を考えずに出来なかったらそれは教会ではありません。もし金がないから、この子供のお葬式のミサが出来ませんと言ってしまったらそれは司祭ではなく獣です。お金の問題ではありません。お願いします。今日のこのミサに預からなかった人々にも伝えてください。こういうことに困った人に何よりも子供のことを考えて欲しいと伝えてください。金が全然なくて困ったら教会が払います。必要なお金なら教会が払うべきです。それが教会の姿です。まず子供の命を考えていただきたいです。それが一番大切なことではありませんか。
  さあ、次の話しです。条件洗礼と言う言葉を聞いたことがあると思います。条件洗礼ってそれは何ですか。洗礼は誰が授けるんですか。 皆さんも洗礼を授ける権利があります。洗礼はもちろん司祭が授けますが洗礼を受けた皆さんも洗礼を授ける権利があります。未信者の臨終の時、皆様も条件をつけて洗礼を授けることができるし、それは権利であり、義務です。もし道を歩いていて目の前で交通事故が起きて倒れて死にそうな人の姿を見たらどうしますか? もちろん救急車を呼びます。そして道で溜まった汚い水でもあったらその水で洗礼を授けるべきです。 「もしも、あなたが洗礼を受けるのに相応しいであれば、私はあなたに父と子と聖霊の御名によってあなたに洗礼を授けます」 ということです。そして、親は信者で司祭が来るのが間に合わない赤ちゃんの緊急の場合は急いで親が洗礼を授けられます。私達はいつも意識するべきことがあります。もう一回確かめる質問させていただきます。皆様は洗礼を授けられるのでしょうか? はい、出来ます。そしてもしかして、この人は呼ばれるかもしれないので、そのときは信者としてこの人の協力者になるという意識です。勿論、そのような条件の洗礼を受けた人が意識を取り戻し回復したらその洗礼は無効になります。回復したら司祭のところに連れて行って洗礼を本当に望んでいるかいないかを確かめて要理の勉強をして正式に司祭から洗礼を授けてもらいます。  
  今日の主の昇天の祝日を迎えてこのミサ前に4人の赤ちゃんが洗礼を受けました。うれしいことです。このミサを通して、この4人の赤ちゃんたちが綺麗に成長するように祈っていただきます。
  ゴールデンウィークでミサに与かる人が少ないんじゃないかと思いましたけど沢山の皆様が来られましたのでうれしいです。
  今日の福音を通して私達がなぜこの世に生きているのかを、どのような生き方をすればいいかを、私達が望まなければいけないものは何なのかを悟る日曜日になって欲しいです。そして、私達の持っている信仰の権利と義務についてもっと深く考えて見る機会になってほしいです。

                                          ありがとうございました。
 

2008年 4月6日
                      印刷用ページ(PDF PDF文書) 
このページの先頭へ                                         復活節第6主日 金 大烈 神父   2008年4月27日(日)
    
                     ≪クリスチャンとしての愛の実践≫
  二週間私が韓国へ行っている間、ミサがなかったことをあやまりたいです。
司祭の立場では気になる二週間の日曜日でした。実際旅に行く前にいろいろな思いがありました。他の司祭に頼んで皆様がミサに与れるのが正しいのか・・・。しかし、私の頭の中に望みがあって、最終的に他の司祭に頼むより司祭がいない条件で日曜日を過ごしてもらった方が良いのではと、み言葉の祭儀にしました。その理由はミサって本当に大事だということを心と体で実感して欲しかったからです。皆様には他の思いがあったかもしれないのですが。先週の日曜日、祭儀に来られなかった人、手を上げて頂けますか。先々週の日曜日に来られなかった人は? ミサの方がいいでしょう? そうではないですか? 言葉が解らない外国人の立場でもミサの方がいいのではないでしょうか。そういう意味で良い体験になるのではないかと思ってわざわざこのようにしました。
  日本の教会の現実として日曜日でもミサが捧げられない教会が結構あります。しかし皆様は各自の言葉でいろいろな国の人々がミサを捧げることができる。このことについて神様に感謝すべきではないでしょうか。このような思いが強かったのです。ミサの大事さ、なぜ私達がミサを通らなければならないのか、信仰の中でご聖体を通して現されるイエス様が中心にならなければならないのか。ご聖体を頂くためには必ずミサが必要であることを私達はなぜ悟らないのか。それを解って頂きたかったのです。皆様本当に大事にしましょう、このミサ。一週間の中で何を優先させるかを決める前に、無意識に「私にとってはミサが一番大事」という思いが皆様の胸に強く刻まれたら、私達の祈りの中で “召し出し” “召命” そういう若者のためにも祈るでしょう。この日本の教会の未来を見ながら若者たちの中にたくさんの召し出しがあるように、「神様日本の教会を守って下さい」 という祈りが自然に出るでしょう。皆様お願いします。カトリック教会は司祭なしには何もできません。それは2000年前からのことです。そういう意味で私達はもっと強く願う心でイエス様に祈りましょう。必ず下さいます。「働き手が足りないのです。あなたが守って下さらなかったら何もできないのです」 という祈りが必要ではないかと思います。
 さて、世界の人口はどの位だと思いますか? 2007年の統計によりますと65億人だそうです。そのうちキリストを救い主と信じている人の人口はどの位でしょうか。キリスト教は大きく四つに分けられます。
 1.カトリック 
 2.新教(プロテスタントとよく言いますが、プロテストとは抗議するという意味ですからあまり使わない方がいいです。教会一致のためにも新教と言う方がお互いにいいのではないかと思います。) 
 3.ギリシャ正教・ロシア正教等の正教会 
 4.イギリスのカトリックの聖公会
  これらの人達をクリスチャンと言いますが世界で25億人位います。世界の人口の3分の1を超えます。二番目に大きい宗教はイスラム教ですね。イスラム教は何を信じていますか? “神様” ですね。キリスト教はイエス・キリストを通して神様を信じています。神様がいないと言う人は結局5%たらずです。ですから世界の人口の4分の3が形は違うかもしれませんが、神様を信じて自分が救われたいと願っているのです。そして救われるために神様が教えた掟を守りたい、そういう希望を持って各自が信仰の生活をしているわけです。
  4分の3の人が宗教を持っているとしましょう。ほとんどの人が宗教心を持っているわけですよね。しかし、この世の流れを見てみますと、食糧がたりなくて小麦やお米、水など一番基本的な物がなくて困っている死にそうな国がたくさんあります。逆に豊かな環境の中では食べ物には困らないでお腹は満たされるかもしれないが、昔持っていた情けや情というものがほとんど見えなくなりました。利己主義的になってしまった。どういうわけでしょう?カトリック信者は15~16億人と昨年の統計では言われています。その内休んでいる人のことを考えても、少なくても5億人以上の人が毎週ご聖体を頂いている。どういうことでしょう?この頃テレビ、特にNHKでドキュメンタリーをたくさんやっています。そこに映し出されているのは飢えて死んでいく子供たち。自ら反省しなくてはいけない。私達それぞれの立場でどうすれば良いか。どうすれば神様に喜んでいただける世界に戻れるのか。
  今日の福音でこのように言われていますね。「あなたがたは、私を愛しているならば、私の掟を守る」 掟とは、まず第一に 「神様を愛すこと」。二番目は 「隣人を自分のように愛すこと」。最後に 「私の掟を受け入れ、それを守る人は、私を愛する者である。私を愛する人は、私の父に愛される。私もその人を愛して、その人に私自身を現す」 と言われています。結局、掟を実践、行うことですね。
  カトリックでは愛の掟の実践に二つの形があります。たぶん、皆様も二つの形のうちのどちらかの生き方をしていらっしゃると思います。
  ひとつは消極的な愛の実践。ふたつめは積極的な愛の実践。消極的な愛の実践とは罪を犯さないようにがんばること。積極的な愛の実践とは、自ら探しながら自分の愛を表現することです。私達の目にどちらがきれいに見えるでしょうか?
  そうです。イエス様が叫んだ福音は消極的な愛ではありません。怖がりで臆病で罪を犯したら地獄に落ちる、そういう恐れによって、逃げ場として罪を犯さないようにする。それは意味がありません。イエス様が叫んだのは積極的に探しなさいということです。そうしたらあなたの中に燃やされる聖霊の働きの体験をすることができると、何回も何回もおっしゃっているのです。皆様、たぶんいろいろな形で愛徳とか、施し、良いことをなさっていると思います。しかし、この世の中、地球村と言われる位狭くなっているのに、前より激しく格差が広がっています。食事のときまず感謝します。そして今困っている子供たちのために、私がどうすれば良いか祈りから始めましょう。そういう小さい動きから私に与えられた使命が現われると思います。
  私達は運命共同体です。一人が死んだら皆死にます。これは神様が約束しました。私達は利己主義的な宗教集団ではありません。信者でも信者でなくても、全然利害の関係がなくても愛の実践をなんとか見せなければならないと思います。 それがイエス様を頂く一番大きな目的ではないでしょうか。お願いします。私も反省します。一緒に良い方向に向かって歩みましょう。
  最後に、私は旅に行って帰って来たんですよね。ですからお土産を持ってきました。率直に申しますと、私の母が皆さまに差し上げたいと用意したロザリオです。ひとつずつ差し上げますので並んで下さい。          
                                          ありがとうございました。
 

 金神父が巡礼旅行中のため、4月13日と20日の【神の種】は休載します。
      
                      印刷用ページ(PDF PDF文書) 
このページの先頭へ                                         復活節第3主日 金 大烈 神父   2008年4月6日(日)
    
                    ≪信仰とは神に委ねること≫
 ある人というか、大体私達はそうなのかもしれませんが、「今までやってきたのは自分の力でやってきた」 と思っている人が結構います。今まで自分の力によってやってきたというプライドを持っている人が少なくないです。しかし、少し考えてみましょう。自分の辿ってきた道を振り返って、自分はいろいろなことやいろいろな人との関わりによって支えられ守られてきたことを悟るべきです。この世の中には自分の力だけでできることは何もありません。物に対しても人に対しても 「いろいろな物やいろいろな人達に恵まれてきた」 ことを感謝しなければなりません。そして、もっと深く考えてみるとその真ん中に、中心に神様がいらっしゃいます。
 皆さんはどういうタイプですか? 不平、不満、文句が多い方ですか? 自分は客観的にみると否定的だと思いますか? または、何かあっても肯定的に考えるタイプですか? いつも不平、不満に囲まれている人にとって何より大きな損になるのは感謝することができないということです。もし感謝することができなかったら自分の生き方が楽しくない、喜びがありません。人間に与えられる一番大きい喜びというものは結局感謝の心から生じます。私達はどれ位感謝しながらこの人生を生きているでしょうか?よく振り返ってみて下さい。よく考えてみて下さい。そしたら感謝することばかりです。「この世の中のすべてのことを感謝しなければいられない」という気持ちになります。
 ひとつの作り話をします。オリーブの木と杉の木がいました。オリーブの木は適な場所に植えられていました。 「私は成長したら、たくさんの実をつけて人々に褒められたい」 という希望を持って子供のときからそういう心を育てました。又、杉の木は 「私は立派に空までそびえて、みんなに格好いいと言われたい。逞しく大きくなりたい」 という夢を育てました。しかし、オリーブの木は成長しましたが実がみのらなかったのです。その木の持ち主は残念に思いましたが、他の木の邪魔になるのでしかたなく切りました。杉は植えられている所に新しい道路ができたので、空に聳える前に切られました。結局、きれいな夢を持っていたこの二つの木は夢を失ってしまったのです。切られたオリーブの木と杉の木は丸太にされてほかの場所に移されました。オリーブは 「私は実をみのらせられなかったが、職人の手できっと何か良い役立つ物になるかもしれない」 と思っていました。しかし、完成された自分の姿を見ると、牛や馬がエサを食べる飼い葉おけでした。 「私は希望を持って今までやってきたのに、なぜこんなになってしまったのか」 と思い、オリーブの木は泣きました。「自分がやりたかったことは全部できなかった。自分のせいでなく何かの力によってこんなになってしまった」 そして自分は呪われていると思い 「私には神様を愛する理由はない」 と神様も呪いました。そして毎日、毎日辛い気持ちで飼い葉おけの役割をしていました。杉の木も丸太になってどこかに運ばれて行き、何になるのかと思っていました。完成された自分の姿を見たら、それは犯罪者と言われる者たちが処刑される十字架でした。 「私は皆に褒められたかったのに、この姿を見たら人々は私を呪うのではないか。なぜこんなに自分の生き方はメチャクチャになったのか」 杉の木も自分は呪われていると思い、神様のことも呪いました。
  皆様もう予想がつくと思いますが、ある日その飼い葉おけには救い主である赤ちゃんのイエス様が寝床として横たわりました。又、杉の木の十字架は人類の救いのために必ず必要だった十字架の道の主人公の役割をした十字架になりました。
  何か感じられるでしょうか? 私達にはわかりません。神様が御旨によって私達にどのようなことをご計画されているのかわかりません。よく考えて下さい。一年前、私はこの太田教会に来ました。それまで皆様に会うとは全然思っていなかったです。想像さえしませんでした。しかし今皆様とわたしの絆ができています。皆様は私を信頼してくれています。私も皆さまを信頼しています。予想できなかったことです。
  信仰というものはこのような目で見なければならないのです。たぶん、いろいろなことでがっかりしていらっしゃる方が結構いると思います。それも罪です。がっかりするのも罪です。私達にはがっかりする資格がありません。権利がありません。なぜなら信仰というものは委ねることだからです。イエス様は私達に何かご計画があるのかどうか。その計画は何か。良く祈りながらそれを図ろうとする心が私達には必要です。
  イエス様がつけられた十字架になった杉の木は幾つかの木片になって、2000年たった今でも世界のあちこちの有名な聖堂に保管されています。そしてそこには信徒たちが訪れ、接吻し祈りを捧げています。今度30名の方が韓国に巡礼に行かれますが、韓国の教会にもその十字架の木片があります。それはパパ様が認められたもので韓国では宝の木、宝木と言います。そこを訪れた時この話を思い出して下さい。
  オリーブの木の目的は何でしょうか? 実をみのらせることですよね。それが許されなかった。どれほど辛かったでしょう。しかし、イエスさま、神様のご計画は違うところにあったと後で悟るのです。
 皆様お願いします。いろいろむずかしいことや問題があると思いますが、何より神様に委ねることです。 「神様、あなたが良くして下さることを信じます。私はあなたのみ言葉に従うことだけをします」 と言えば、全部神様が責任をとって下さる。これが私達に何より必要な信仰の姿だと思います。
 今日の福音はエマオに行く二人の弟子の話でした。道でイエス様に出会って、イエス様がパンをさいた途端にイエス様だとわかったという復活の体験が語られています。この二人はどのように言いましたか? 「道で話しておられたとき、又聖書を説明して下さったとき、私達の心は燃えていたではないか」
  皆様、み言葉を聞いて祈るとき心が燃えた経験があるでしょうか? 熱く燃えたり、これが真の人生だと悟った記憶があるでしょうか? 復活の体験とはこんなに熱いのです。自分が今まで科学的に考えられなかった体験がこの中で生じるのです。私達は頭と胸と共に生きています。頭で論理的に考えます。しかし、感じるのは胸です。胸で感じられなければ絶対熱くなりません。人間を幸せにさせるのはこの胸です。胸で信仰の道を歩もうとする努力が何より必要ではないでしょうか。

                                            ありがとうございました。
 

2008年
3月2日   3月9日    3月16日     3月20日 3月21日  3月22日  3月23日 
(聖木曜日) (聖金曜日) (復活徹夜祭) (復活の主日)
                      印刷用ページ(PDF PDF文書) 
このページの先頭へ                                         復活節第2主日 金 大烈 神父   2008年3月30日(日)
    
                      ≪信仰とは求めること≫
おはようございます。今日はミサの中で洗礼式があります。1人の大人の方と6人の子供達です。そのため、今日の説教は簡単にさせて頂きます。
  人によって、信頼を持って人を良く信じる人がいます。また逆に初めから疑いを持って、物についても人についても余り信じることの出来ない性格の人もいます。皆様はどちらでしょうか? 人間関係においてまず疑いから始まるのでしょうか? 「だまされてもいいよ」 と信じながら始まるのでしょうか。皆様はどちらですか。
  人間関係について考えてみると、皆この社会の中で子供の時から今まで、人にだまされた経験も、傷つけられた経験もあります。ですから子供たちに、「条件なしに人は必ず信じなくてはならない」 と教えるのは少し難しいことだと思います。実際に人間の関わりの中では、人を疑いながら、また確かめながら、何とか前を見なければならないのが、私達人間の関わりではないでしょうか。しかし 「神様に対して私達はどうすればいいか」 を考えてみましょう。純粋に、言われたとおり神様を信じる人々もいます。しかし何についても確認しなければ、イエス様に対して、またイエス様の教えについても信じることが出来ないという人もいます。皆様はどちらですか。イエス様を堅く信じていますか? イエス様を信じていますか?
  そうです。イエス様のことは私達の心によって、私達の意志によって信じられることではありません。信仰というものは、イエス様が許して下さらなかったら出来ません。
  信仰とは求めることです。自分がつくるものではなく、求めるものです。求めるものとはどういうことでしょうか。神様が、イエス様が許されなかったら、求められないことになるのです。ですからよく考えてみて 「なぜ私は信仰が浅いのか」 と思われる方は 「イエス様、あなたを強く信じることが出来るように許して下さい」 と祈るべきです。祈りましょう。この祈りが無ければ私達はイエス様が見せようとしたお言葉の意味をそしてイエス様に対する信頼感も得ることが出来ないと思います。
  今日の福音の中でトマスが 「イエス様の脇腹に直接自分の手を入れ、手の釘の後に自分の指を入れなければ私は信じません」 と言ったこと、それは悪いことではありません。たぶんトマスも求める心だったのでしょう。ですから 「あなたの信仰を私が強くしよう」 とイエス様はわざわざご自分で現れて信じるようにしたのです。その体験によって、トマスはインドまで行きました。そして素晴らしい殉教をしました。
  結局、私達が持っている信仰というものは、神様が作って下さったものにほかならないのです。ただ私達は求める心が何よりも必要ではないかと思います。
                                            ありがとうございました。
 

                      印刷用ページ(PDF PDF文書) 
このページの先頭へ                                         復活の主日 金 大烈 神父   2008年3月23日(日)
    
                         《ご復活おめでとうございます》
 昨夜のミサに来られなかった方いらっしゃいますか? 昨日挨拶が出来なかった人もいるので一緒に隣の人と挨拶しましょう。そしてブラジル、フィリピン、韓国、インドネシアの人は、日本語の 「ご復活おめでとうございます」 を練習して、大きい声でお互いに挨拶交わしましょう。 そして今皆さんがご復活祭の記念に、これから会う人に見せなければいけない顔は今の笑顔です。
  これから皆様に質問します。今の皆様の心はどうですか? 平安な心でしょうか? それとも落ち着かない心でしょうか? もう一つ質問します。イエズス様が復活されてから初めて言った言葉は何でしょうか?
「平和があなたがたと共に」 です。この言葉の意味は私達の心にもし平和な心がなかったら、私達はまだ復活を味わっていないことになります。平安な心は何でしょうか?痛み、心配、憎しみがない心でしょうか? おもしろい心でしょうか? それとも気持ちいい心でしょうか?
  イエズス様は私達に保って欲しいとおっしゃった、その平安な心と言うのは私達が常識的に 「心は今大丈夫」 と思っているような、そんなに簡単なことではありません。平安な心の中には痛み、辛さ、心配そしてたまには怖さもあります。しかしイエズス様は 「平安な心を持って下さい」 とおっしゃいました。平安な心に必ずあるものがあります。それはイエズス様が見せて下さった生き方に対しての希望です。いろんな難しさがあってもその心の中に正しい希望があれば、私達は平安な心を保つことができます。これが復活の力です。
  皆様もう一回質問します。おそらく今皆様の頭の中にいろんな心配とか悩みがあると思います。しかし皆様の心は平安でしょうか? このメッセージをもらって、もう一回改めて新しい素晴しい生き方をしましょう。皆様に必ず覚えていただきたいことは、復活というものは十字架と離れて考えられないということです。十字架が終わって復活があるということではありません。この復活という言葉の中に十字架があります。復活を知らない十字架、それは意味がありません。この十字架を抱きしめて本物の復活になるのです。これからもいろいろ乗り越えなければならない山が待っていると思います、しかし山が無くなるようとは祈らないでください、山を乗り越えられる力を下さいと祈りましょう。それが私達が信じている復活の神秘です。
  最後に皆様、幸せになりたいでしょう? 私は幸せになりたくないという人はいないでしょう? みんな幸せになりたいですよね。唯一の秘訣を教えてあげます。良いことをして下さい。人間はやりがいを食べながら生きています。自分の持っている条件にとらわれないで下さい。良いことをやろうという気持ちがあれば良い結果が出ます。その中に幸せがあります。
  もう一回、私達はご復活おめでとうございますと挨拶を交わしましょう。
 「ご復活おめでとうございます」

                                            ありがとうございました。
 

                      印刷用ページ(PDF PDF文書) 
このページの先頭へ                                         復活徹夜祭 金 大烈 神父   2008年3月22日(土)
    
                           《ご復活、それは希望》
 ご復活おめでとうございます。(英語・スペイン語・ポルトガル語・ベトナム語・韓国語・インドネシア語・タガログ語で) 皆様、今のその笑顔を保ちながら私の説教を聞いて下さい。
  今日栄光の賛歌を歌う前に、聖週間の間祭壇上の十字架を覆っていた紫の布が取り外されました。しかし、ご復活された今もイエス様は相変わらず十字架につけられたままです。どうしてでしょうか? それについて話し合いたいです。
  使徒パウロがコリントの信徒にあてた手紙の中で 「私達が宣べ伝えているキリストの十字架は、ユダヤ人にとっては躓かせるもの、異邦人にとっては愚かなものです」 (コリント1・1・23)と書いているように、実際2000年前に十字架につけられたイエス様のことを考えてみますと、これは完全に常識に逆らう事件でした。
  ユダヤ人たちは昔から神様からの奇跡を求めていました。この方こそ待ち望んでいた救い主だと思い、心をこめて従おうとしたイエスという人物が結局十字架につけられたということは、自分たちが騙されたことになります。彼らにとってはイエス様の無能力を示すことでした。そして、異邦人たちは(ギリシャ人やローマ人等、初代キリスト教の共同体が宣教しようとしたユダヤ人以外の周辺の国の人々)いつも物事を論理的に考えて結論を出す習慣がありました。彼らの論理ではイエスの十字架の死というのは理解できない、納得できないことでした。やさしく言えば、ユダヤ人にとっては気に障るもの、異邦人にとっては筋道が通らないもの、これが十字架でした。
  ところで、私達にとってこの十字架は何でしょうか? なぜ復活祭を迎えたのに私は十字架の話をしているのでしょうか? それには訳があります。復活というものはあの十字架なしに考えることは絶対できません。そういう意味で四旬節を一生懸命過ごしましょうと何回も何回も繰り返し皆様に言ったのです。この40日間どのような心で生きてきたかによって、今日のこのミサで、具体的に皆様の心の中で復活したキリストを体験することができるかどうかが決まります。皆様よく考えて下さい。十字架というものは私達の感覚でみても常識に逆らうことです。全知全能の神、すべてのことがなんでもできる方がご自分が創った人間によって殺されたのです。 そのような無能力にも見える救い主に私達が従うのはなぜなのかという質問に対して、十二分に語ることができます。
  この十字架に真理が隠れているのです。復活とは何でしょうか? 皆様にとってどういう意味を持っているのでしょうか?
  復活は一言でいえば “希望” です。このミサを通して皆様の心の中で “希望” が生じたかどうかで復活の体験ができたかどうかが決まります。皆様お願いします。「希望を持って下さい」 何の希望でしょうか?変わってしまう希望でしょうか? いいえ、そうではなく、イエス様が教えようとした “美しい道” その道を私達も生きるという希望です。二日前に私は皆様にお願いしましたね。外面的なことではなく内面的に格好良くなりましょう。一日、一時間、一分でも意味を捜すそういう生き方をしましょうと。テレビに出ている有名な俳優や歌手を格好いいと言いますね。しかしその人達の生き方を私達は知りません。それでは格好いいとは言えません。顔というものは変わります。「変わらないものが格好いい」 そういう人になることが私達の役割です。必ずなれます。身体が不自由でも、お金がなくても、その人その人に合う素晴らしさ美しさを見せることができます。今まで自ら躓いて 「私は何もできない。この世の中は美しくない。人生はおもしろくないし、生きる意味はない」 と言っていた人が 「そうではなかった。イエス様が見せた真実の生き方が自分にもできる」 そういう希望を持てるようになるのが十字架、そして復活です。ですから復活したイエス様がそのまま十字架にかけられているのには訳があるのです。復活する前の十字架とその後の十字架はそれを見る私達の目が全く違います。復活の希望の体験ができた人にとっては、あの十字架は美しく見えます。その体験ができなかった人にとっては悲しく、愚かに見えます。「なぜ、なんで」 ということになってしまうでしょう。
 神の子であるあの方が約束した復活の生き方を見せて下さらなかったら、私達がここ(教会)にいる理由がありません。結局、信仰の道は十字架を抱きしめて復活を望む歩みです。この十字架と復活を別々にして考えるのは偽りです。十字架を負わずに 「私は復活の体験をしている」 と言うのはうそです。復活の意味もイエス様の生き方の意味もわからないことになります。
 笑顔を見せて下さい。この笑顔を持って生きましょう。背中に十字架を背負っていてもこの笑顔を忘れないで下さい。それが復活の体験です。皆様の胸の中をよくご覧になって下さい。“希望” というものが見えますか? 必ずあります。絶対譲ることのできない “希望” がそれぞれの胸の中に必ずあります。それに答えなければならない。がんばりましょう。良く生きましょう。それが復活されたイエスさまへ私達ができる一番大きいうれしいプレゼントになると思います。
 最後にもう一度挨拶させて頂きます。「ご復活おめでとうございます」
 お互いにももう一度挨拶を交わしましょう。
  「ご復活おめでとうございます」
                                            ありがとうございました。
 

                      印刷用ページ(PDF PDF文書) 
このページの先頭へ                                        聖金曜日(主の受難) 谷  大二 司教   2008年3月21日(金)
    
                               《救いの十字架》
  福音が読まれる時、私達は額と口と胸に小さな十字架を刻みます。これは2世記まで遡る一番古い十字架の印です。当時はまだ迫害があり大きな十字架をきるとすぐ捕まってしまうような時代でした。十字架に架けられたのはイエス様だけではなく色々な殉教者達が十字架に架けられました。特にアジアの日本、韓国、中国、ベトナムは近代において多くの殉教者を出した国です。ベトナムでは1975年、つい30年前にも殉教者を出しています。
  今年ペトロ岐部と187殉教者の列福式が11月24日に行われます。ちょうど400年位前の殉教者です。当時、殉教者は何人位いたでしょうか? 日本だけで2万人の殉教者が出ました。フランシスコ・ザビエルが1549年日本に来て以来60年、日本での信者数は40万人と言われています。ですから20人の信者の内1人が殉教している割合になります。今日ここに160人の人がいるとすると8人が殉教することになります。もしここで8人選ばれるとしたら、進んで手を挙げる人はいるでしょうか。これは個人の信仰というよりも当時の共同体の信仰がそれほどしっかりしていたからです。信仰がしっかりしていた、だから殉教者が出せたということです。もちろん殉教のない社会の方が良いわけですが、殉教者を出すということは共同体の強い信仰があったからです。
  浦和の司教館の近くのお寺で30年前に小さなマリア像が発見されました。それが発見されてから色々と歴史が調べられ、川口から2人殉教者を出していることが分かりました。3人の家族で、奥さんはルフイーナという日本人、ご主人はゴンシチという朝鮮半島からの渡来人、そしてその子供の3才のマサユメ。この3人がキリスト教を信じていることが知れて、北町奉行に連れて行かれました。捉えられている時に寒松(カンマツ)というお坊さん(有名な人で、足利学校の校長をした人)が救出を願いますが、結局ルフイーナだけ
が助け出され、ゴンシチとマサユメは処刑されました。ペトロ岐部と187殉教者の中にも3才の男の子がいます。3才の子供に殉教出来るのでしょうか。
  この間、ある教会で子供達を集めて説教した時、「この世の王様と神様とどっちが偉いか?」 と聞きました。本当は 「この世の権威と神の権威とどちらが上か?」 と聞きたかったのですが・・・。皆 「神様!」と大きな声で答えました。一番小さな子が3才。3才の子供でも神様の権威の方が上である、神様の方が偉いとはっきりと信仰告白が出来ます。
 3才のマサユメは信仰を教えてくれたお父さんに従って連れて行かれ、十字架に付けられ焼かれました。ですから子供だからと言ってバカにしてはいません。子供は本当に純粋な信仰を持って歩んでいるのです。その子供を惑わせずに、まっすぐに歩ませるのが親の役目です。いずれにせよ、3才の殉教者は余りにも不憫な気がします。皆さん、自分の子供が十字架につけられそうになったらどうしますか。多分、私だったら 「この子には何の罪も無い、許してあげてくれ」 と言い、その場をしのいで何とか子供を助けようとするでしょう。ゴシンチは自分が十字架に架けられる姿を見せて、子供に信仰を伝えようとし、マサユメはその父の姿を見て、その後について行きました。当時、見た目にはこの世の権威に負けて十字架に架けられ、殺された思想犯でした。しかし今、我々はその信仰を “栄光の殉教” として受けとめています。
  当時の殉教者の中には、イエス様よりもっと悲惨な目にあって亡くなった人もいました。“パッション” という映画はイエス様の悲惨な受難を描いたものですが、187人の中にいたハラモンドという人はもっと悲惨な生涯を送った人です。関東で宣教活動をしていた人ですが、その人は両手両足を全て切り取られてしまいました。それでも地下に潜って宣教活動を続け、最後には殉教しました。イエス様の十字架と殉教者達の十字架との比較は出来ませんが、悲惨さだけ見るともっと悲惨な殉教もあったと言うことです。殉教者達は十字架の上で悲惨な殉教を遂げ、栄光の殉教へ入りました。この世での最期を信仰における勝利へと変えていったのです。
  イエス様の十字架が殉教者のそれといくつか違う点があります。人はイエス様を十字架に架ける、人間が神を殺すとう最大の罪を犯しました。しかし、それは神様が人類のために最愛の子イエス様を差し出した、その愛が最も良く現れている瞬間でした。人類が最大の罪を犯した時、神様が最大の救いを開くその瞬間でした。その十字架が全人類の救いの印となり、救いへの道を開け、神様の愛がもっと美しく現れた瞬間でもありました。それは殉教者の十字架においても神の愛が表されたものです。
  私達は十字架を見ることはしょっちゅうあります。何の意識もせず食事の時、十字を切ります。時々そのことを思い出すこともありますが、今日は特にこれから行われる十字架の崇敬の時には、私達人類が犯した罪を謝罪し、神様の愛と救いに心から感謝出来れば良いと思います。そして殉教者達の血が無駄にならない様に、私達が今この世の中でどのように殉教を出さない社会を作って行くか、宗教においての弾圧、特にキリスト教は未だに中国やベトナムにおいては弾圧を受け、その中で若しんでいる人もいます。日本もいつそうなるか分かりません。そういう時代が来ないように、宗教の自由が保障される社会を私達自身が守って行くことが必要だと感じます。
 イエス・キリストの十字架、殉教者の十字架、そして皆さんの背負っていらっしゃる十字架。今日この十字架の前で思い起こしましょう。
 

                      印刷用ページ(PDF PDF文書) 
このページの先頭へ                                   聖木曜日(主の晩餐) 金 大烈 神父   2008年3月20日(木)
    
                     《ご聖体を頂く意味は・・・》
  お説教を始める前に、まず、今晩このミサに何ヵ国の方々が与っているか尋ねてみましょう。日本人? ブラジル? ペルー? フィリピン? ベトナム? インドネシア? そして韓国?。 それ以外の方は? メキシコ? ありがとうございました。
  とても意味のある《主の晩餐のミサ》になっているのではないかと思います。これも私達共同体が神様から頂いた大きな恵の一つだと思います。どの小教区やどの国においても、この様にたくさんの国の方々が同じカトリックの信仰によって集まって、神様を称えながら賛美することが出来る場所はこの世の中にどれ位あるでしょう。もちろんローマはありますね。それ以外は? もしかするとこの太田は5つの指に入るかも知れません。ここは素晴らしい恵で包まれている共同体だと思います。
 さあ、今日は2つのことを申し上げたいと思います。
イエス様は自分の運命、与えられたこの世での終わりが近づいていることを感じました。そして最後に自分に従って来ていた弟子達を集め、“最後の行い” を実行します。それは何でしたか? “食卓を囲むこと” でした。皆で食卓を囲んで食事をすることでした。そしてその食卓で行われたのは何でしょうか? そこで定められたものは何でしょうか? 私達カトリック共同体の “心臓”、“ハート” の様なものです。それは何ですか? 今日、第2朗読で読まれた内容です。“聖体の秘蹟” です。“聖体の秘蹟” が定められた日です。イエス様は聖体の秘蹟を定めて、その後何をなさったのですか? 弟子達の足を洗って下さったのです。この2つのことを少し黙想してみましょう。
  私達がご聖体を頂く一番大きな意味は何でしょうか。何故毎回ミサでご聖体を頂くのでしょうか。何故自分に罪があると感じたら告解室に入って許しの秘蹟を受けて、ご聖体を頂くのでしょうか。その意味は何でしょうか。一番大きな意味は? 覚えておきましょう。一つはご聖体を頂く私達それぞれが具体的に、直接的にイエス様との “出会い” を求めるからです。それはイエス様自身がおっしゃったことです。「これは私の体である」 と。多くの方がこの様な意識を持ってご聖体を頂いていることは存じていますが、もっと具体的に感じて頂きたい。「キリストの体」 という司祭の声を聞く前に、“震える心” で待っていて欲しいのです。震えながらご聖体を頂いた記憶はいつの頃のものだったでしょうか。そして頂いて感謝で心が一杯になり、自分も知らないうちに涙が自然に流れ出た、その記憶は今までの人生の中で何回あったでしょうか。もし“ご聖体”の姿ではなく、イエス様自身がこの祭壇の前に立たれて 「これは私の体です、食べなさい」 と言われたら、私達は声さえも出せないと思います。第一の目的、意味はイエス様と “一つになる体験” です。これは論理的には絶対説明出来ません。ただ体で、胸で、霊的なことによって体験するものです。その様に “イエス様の体” だと固く信じて “イエス様” を頂いたら、その後私達は何をするべきでしょうか。それが第二の意味です。それは何でしょうか? 
  「これは私の体である。これを食べなさい」 ということは 「私(イエス様)が自分の体を裂いてあなた方の口に入れたのです。ですからあなた方もあなた方の体を裂いて必要な人に与えなさい」 という意味です。このご聖堂の中でご聖体を頂き、聖なる姿となり聖なる体験が出来ても、後ろのドアから出た後は、この社会の人々と全く同じであったらそれは、何よりもイエス様をもう一度殺すことになるのです。ご聖体はある意味において、ものすごく負担になるものです。何故なら自分が小さな動く “聖櫃(ひつ)” となるからです。自分自身がイエス様のおられる “聖堂” になるのです。もはや自分だけの体ではありません。だから私が外に出て、出会う全ての人々に出来るだけ “イエス様の体” を渡さなければならないのです。それが私達死ぬまでの召命ではないでしょうか。全ての信者に与えられ、ただ無意識のうちに頂くものでは絶対にありません。ご聖体を頂く前に必ず 「本当に私は相応しい心か」 「この様な状態で司祭の前に手をのばし、ご聖体を手に取り、口に入れても良いのだろうか」 といつも自問し、意識すべきだと思います。
  時代は少しずつ変わりました。昔はこの様なことを強く強調しましたが、今では日常的な当然のこととして、司祭の手から渡されたご聖体をすぐ取って頂く様になっています。しかし時代がどんなに変わっても、環境がどんなに変わっても変わらないものが必ずあります。それを私達は一般的に “真理” と言います。“真理” である “イエス様の体” を私達が頂くために、いつも意識して準備された心で頂かなくてはならないと私は信じます。
  今日は主の晩餐です。何故あの方は “最後の行い” を弟子達と食卓で交わることにしたのでしょうか。33年間イエス様が見せようとした全てのものが集約されていたもの、それが “食卓” です。信仰的に言いますとその食卓はキリストとの分かち合い、交わりを意味します。さあ、主の晩餐のミサに与っている私達、もう一度ご聖体について良く考えてみましょう。
 2番目、皆様と分かち合いたいと思ったのは次の様なことです。“良く生きている” 人々の姿を見る時、私たちはうらやましいと思います。“良く生きている” とはどういうことを言うのでしょう。体が丈夫なこと?お金をたくさんもうける人々? テレビスターの様な有名人になること? そういうことを意味していません。私が申し上げようとする “良く生きている人” というのは、誰が見ても 「あの人は格好良いな、あの人は素晴らしい生き方をしているな」 と悟らせてくれる人々を意味します。全ての人々は宗教、信仰を持っているかどうかに係わらず、その人が意味深い生き方をしていれば、必ずその人に引っ張られます。「私もあの様な生き方がしたい、何故私はこの様な生き方をしていたのか」 と色々な複雑な思いがします。
  皆様にお願いしたいことはこれです。私達に与えられたこの一日、“意味” を作りましょう。もっと易しく言いますと “意味があるもの” を求めましょう。残された人生を格好良く生きましょう。自分が力強く握っているこのものが本当に自分を格好良くするものかどうか、意味がある人生を過ごすために邪魔になるものかどうかを考えましょう。結局、意識することです。 私は皆様全員が “格好良い” と言われて欲しいのです。“格好良いこと” それは皮のことではありません。中身のことです。“あの人は格好良い” と言われる様なことがお互いに出来、その様な人生を送れれば、私達がする全てのことがイエス様のみ心に適うものになると信じます。
  皆様よく覚えて下さい。今、神様は皆様が気付かない何かの “賜(たまもの)” についていつも見ていらっしゃいます。 皆様を一番格好良く出来るその賜を持っているのを良く知っていらっしゃいます。「何故私が与えたその賜を活かせないのか」 その様なもどかしい心で皆様を見ていらっしゃると私は信じます。
  今日、主の晩餐、そして色々な国の12人の方々の足を洗います。当時のイスラエル、ユダヤ人に取って足が意味するものは “汚さ” でした。一番汚いとされる足を他の人に触らせることはありませんでした。足は体の中で一番呪われた所でした。ですからイエス様がその足を選んだのです。私が本当にへりくだる心、自分を救ってくれるその心をもって、まず自分の足を洗いましょう。そして相手の足を洗おうとする意味のある生き方を求めましょう。        
                                            ありがとうございました。
 

                      印刷用ページ(PDF PDF文書) 
このページの先頭へ                                          受難の主日(枝の主日) 金 大烈 神父   2008年3月16日(日)
    
                     《「ホザンナ」 と叫ぶ心、「十字架につけろ」 と叫ぶ心》
 お説教の前に改めて皆様にお願いしたいことがあります。この頃、ミサの前の落ち着きがまたなくなっているように感じます。お知らせが後ろに置いてあったためか、お聖堂に入られてからもお互いに挨拶を交わしたり、お喋りをしたりする姿が見られます。ミサの始まる時間前までには来て、心を整え、心の準備をしなければなりません。聖堂は祈る場所、自分だけでなく他の人も祈っている場所です。
  ですからこの場所は “神様との出会いがちゃんと出来る場所” になって欲しいと願っています。またお子さんを連れたお母さん方にもお願いがあります。子供たちが大きな声を出すのは自然なことですが、ミサの最中、もし自分のお子さんが泣いたりして、それが他の人の邪魔になると感じたら、そっと外に連れて行って落ち着いたら戻って来て下さい。その様な配慮を私達は互いにすべきだと思います。日本語の分からない方にはその国の代表の方が伝えて下さい。
  ミサは私達にとって大事な、そして必要なものです。ミサを捧げる司祭や待者の子供たち、そして皆様と心を合わせ、心を一つにしてこそ、ミサが素晴らしいものになると思います。もう一度お願い致します。
  さあ、今日はミサの前に外で私達は何をしましたか? “枝の行列” をしました。
その行列する前に私が読んだ福音は 「エルサレムにご自分の十字架を負うために入られるイエス様を、多くの人々が大声で手を振りながら歓迎する姿」 でしたよね。そしてお聖堂の中に入って、第1朗読第2朗読と読みました。そして受難記を読みました。その中身は何でしたか?
  外では私達は 「ホザンナ、ホザンナ、ダビデの子、私達の王」 と歓喜の声を挙げましたが、このお聖堂の中では 「十字架につけろ、十字架につけろ」 と叫んだのです。何故今日、「ホザンナ、ホザンナ」 と言った同じ口で 「十字架につけろ」 と言わせるように典礼がつくられたのでしょうか。理由があります。
  エルサレムに入られるイエス様を、本当の喜びを持って 「ホザンナ、私達の王」 と叫んだ同じ口で 「十字架につけろ、殺せ」 と言った人々こそがおかしいと思いがちですが、これはユダヤ人のことを言っているのではありません。
  私達の心の中に “両面性”(二面性)が生きています。「ホザンナ」 叫ぶ心がここにあります。「殺せ、十字架につけろ」 という心も同じくここにあります。結局私達はこの人生の中で、求めなくてはならない、取り組まなくてはならない、頑張らなければならないのは 「ホザンナ」 が 「殺せ」 と叫ぶ心に負けないようにすることです。それが信仰の歩みです。
  さあ、この胸の中には怒りもあるし、慈しみもあります。どちらが皆様を救うのでしょうか。同じ口で “人を殺すこと” も “人を生かすこと” も出来ます。何でも出来ます。それを決めることは皆様にかかっています。今日 “枝の主日・枝の日曜日” に私達が振り返ってみなければならないのは、私達の中にある “良いもの” が同じく私達の中にある “悪いもの” に勝つように力を注いで来たのかという自問です。それを考えることです。これが出来なければ、聖木曜日、聖金曜日、復活徹夜祭、そして復活祭の意味が薄くなってしまいます。そのためには赦しの秘跡も必要です。
  皆様、私達は “聖週間” に入っています。四旬節中、あまり上手く過ごさなかった方々は特に、この聖週間だけでも、もっときれいな心を持つように、もっと信仰的な体験が出来るよう心を開けるように、そしてイエス様が十字架につけられる時、一緒にその痛みに与れるよう心を尽くして欲しいと思います。
  お願いがあります。聖木曜日聖金曜日復活徹夜祭、そして復活祭にどの位の方が与って下さるかわかりませんが、時間的に許されれば、時間的に少し無理をしても、出来るだけミサに来て頂きたいと思います。明日からの月曜日、火曜日、水曜日、そして聖木曜日聖金曜日復活徹夜祭、復活祭」、心を少しずつきれいにして、具体的に “主の復活” を体験して頂きたいと思います。
  私達の心には死ぬまで、“きれいな心” そして “その反対の心” があります。きれいな心が必ず勝つように。そのためにはイエス様の導きと慈しみが必要です。そのためには私達が意識せずに自然に空気を吸い込む様に、祈りの生活をきちんと身に付けなくてはなりません。
  最後に今、皆様は “枝” をお持ちですよね。この頃、色々な家庭を訪問していますが、私がその家庭に入ってまず見るのは、十字架がどこにかけられているかです。しかし仏壇はすぐ目についても、十字架がまず目に入ることが少ない。立派な物でなくても、十字架であることが分かる物をかけて下さい。十字架は隠すものではありません。他の方が来ても 「この方はカトリック信者だ」 すぐ気が付くように、誇りとして一番目立つ所の壁にかけて下さい。それを見る子供たちは成長しても必ずその “十字架” が残ります。これは信仰の一つの教育です。
  今持っているこの枝を十字架につけて(十字架と一緒にして)1年間飾ります。“主の受難の日曜日” のことをこの枝を見ていつも思い返せるようにします。そして来年の灰の水曜日が来る頃には、この枝は緑から茶色へと変わり完全に枯れます。それを教会に持って来て焼き灰を作ります。もし、十字架がない方は是非求めて下さい。お金がない方は私が準備します。そして是非一番目立つ所にかけて下さい。
子供たちがよく見るところにかけて下さい。この十字架は、私達の心そのものを表すものです。
      
                                            ありがとうございました。
 

                      印刷用ページ(PDF PDF文書) 
このページの先頭へ                                 四旬節第5主日 金 大烈 神父   2008年3月9日(日)
    
                                   《ある司祭の話》
   おはようございます、お元気ですか?
   自分の同級生であったある司祭の話から始めたいです。ある日、その友自身が体験した信仰の体験について聞く機会がありました。その時聞いた話が、今ちょうど皆様に必要な話じゃないかと思ったので、ご紹介させて頂きます。その日、彼は日に涙を流しながら、「私は、今振り返ってみると、ものすごく難しい生き方、司祭の道を歩んできたんじやないかと思う」 と言いました。どういうことかと開いてみたら、彼はこのように言い続けました。
  「自分は純粋な心で司祭になりたくて神学校に入り、一生懸命勉強し、いろいろな教えに従っていたけど、いつも楽しくなかった。何か自分にも説明ができない怒りが自分の中に常にあった。その理由もわからなかった。一生懸命に信者の方々に心をこめて、司祭としてするべき全てのものを見せながら頑張ってきたけど、心の中には楽しさとか喜びというものがなかった。その理由が全然わからなかった。たまに襲ってくる孤独感から逃げようともっと熱心に勉強をしたり、司牧に集中したりしたけれど、結局この心の中にはまったく説明が出来ない辛さがあった。そして、今まで歩まなくてはいけない宿命だと思った司祭職についても、『なぜ私はこの道を選んだのか、これが正しい選びなのか、若しかすると私は間違えて今までやってきたかもしれない』 という迷いが続いた」
  このような迷いが続くある日、ある親しい先輩司祭が、聖地巡礼に行ってみたらどうかというお誘いがあったそうです。そして、子供の時から愛してきた聖母の聖地を思い出し、1回も行ったことのないメジュゴリエを選んだそうです。
  その友はこのように語りました。「一人で、ただ普通の信者の姿で、メジュゴリエの巡礼の客と一緒に係りの人が導く通りに従った。ある晩、ロザリオの祈りを捧げる時間があった。普通には5連(1環)捧げるが、ロザリオ30連(6環〉を両手を挙げたまま捧げる時間だった。最後までついていけるかと心配もあったが、とにかくやってみようと思った。肩も手も指も痛くなり、マリア様に自分の願いを言う集中力を失い、祈りながらもいろんなことが頭の中に巡ってきた」
  子供の時からのいろんな傷が浮かびあがったそうです。家庭は貧しく、お金に余裕がない家だったそうで
す。頭もそんなにいい方じゃなく、他の子よりも何倍も勉強しないとついていけない位だったそうです。神学校に入る入るのもすごく苦しく、神学校の入学準備もいろんな恩人から助けをもらって、服を買ったりして入ったみたいです。神学校に入ってからも、自分の小遣いがなく、信者の方々が静かに自分の袋に入れてくれたそうです。そして神父になってからは真剣にやっても、相手はそれを理解してくれなかった。相手のために全力尽くして、心を表そうとしても誤解されて責められた時も結構あったみたいです。そういう辛さがだんだん大きくなって、彼の心を痛めたことが分かることになったそうです。それで、不平を言い始めたそうです。
 「神様! なぜ私はこのような人生を送らなければならないのですか? なぜ他の人と同じ条件であなたの愛される息子として司祭職に務めることが出来ないのですか?」 文句ばっかり口から出てしまったそうです。その時、不思議なことが起こったそうです。30連が全部終わったところ、自分でもわからない涙が止まらずに出てきて、予想もしなかった言葉が口から出てきたそうです。それは、「私は罪びとです」 という言葉だそうです。周りに人がいるのも構わずに、泣きじゃくりながら 「私は罪びとです。私は罪びとです。赦して下さい」 という半分は叫びのような言葉が何度も何度も口から出てしまったのです。「自分は今まで一回も罪がないと、いつも誰かのせいだと思ってきた。しかし自分が全然思わなかった言葉が出て来たので自分も本当に驚いた」  そして彼が最後に言ったのは、「本当に、そのときから祈るときはいっも幸せになる。祈りらしい祈りが自然に出てくる」 という話でした。
 皆様に質問します.赦しの秘跡を受けてから1年にならなかった方は手を挙げて下さいませんか。それ以外の方々、私は責めようとする話ではありません。真の悔い改めということは、誰かに言われて、「私、本当に間違えたかな? 本当に悪かったかな?」 ということによって出来るものではないし、それは意味もありません。真のことは自ら、奥から自分の知らない何かが出てくるのです。それによって 「本当に私は悪かった。私はこんなに愛されたのに、いっも裏切り者だった」 という告白が自然に出なければ、真の赦しの秘跡に与ることは無理ではないかと思います。
 皆様、どう思いますか? 「私は罪びとです」 という心が自然に奥から出てくるためには、何が必要ですか? 厳しく申し上げます。この悔い改めの心も神様が許して下さらなかったら出てきません。そうしたらどうします? 私達が出来るのはなんですか? 悔い改める心さえ神様が許して下さらなかったら出来ないと言えばどうしたらいいんでしょうか? 答えます。この前の待降節の黙想会で皆様に話しました。まず、祈る時間をとって下さい。何にも出来なくても、祈りの時間をとって、神様の前に立ってみてください。そのとき何を言うべきか、何をすればいいか迷わなくてもいいです。ただイエス様の前に立ってみて頂きたいんです。そのとき体験したことのない働きが、神様と皆様の間で起きます。そして本当に私達が悔い改めるところがあれば、必ず悟らせてくださいます。自然に神様から許しをもらわなければならないという心が自然に出てきます。これが祈りの力です.
 皆様、四旬節がそんなに残っていないのですが、お勧めしたいことが一つあります。悔い改めの意味について、自分の愚かさによって間違えたことについて、隠したい自分の傷についてよく黙想してみて下さい。そして出来れば、この四旬節が終わる前に赦しの秘跡を受けて下さい。率直に言います。赦しの秘跡を受けなかったら、私達は喜びの復活祭を迎えることができません。確信します。
 時間がなくてもわざわざ自分のことを思い出してみて下さい.それが四旬飾の意味ではないでしょうか?私達は幸せにならなくてはなりません。いつもご聖体をいただいても、心で何の喜びも感じていないなら、そしてご聖体をいただいても全く同じだったら、それはイエス様のすばらしい力を無視してしまうことです.イエス様の御心の美しさ、喜び全てが自分のものになるためには、自分の心のドアーを開けなくてはなりません。
                                            ありがとうございました。
 

                      印刷用ページ(PDF PDF文書) 
このページの先頭へ                                 四旬節第4主日 盧 煕喆 神父   2008年3月2日(日)
    
                    《黙想会の講話・復活祭(四旬節)を迎えるための準備》
  あともう少し、3週間程でイエス様の復活を祝います。しかし復活が私達にとってどういう意味か、どういう意味として私達が受け入れるかが重要なテーマとなります。カトリック信者、キリスト教信者とは一言でどういう意味だと思いますか? キリストを信じる者を意味しますよね。しかし何で私達はイエス・キリストを信じ
ているのか。何故信者になってイエス様と共にこの人生を歩もうとしているか。この世には仏教、イスラム教等たくさんの宗教がありますが、その中で何故私達はカトリックを選んだのか。もちろん自分の意志ではなく、幼児洗礼を受けたからという人もいるでしょう。根本的に何故私達がイエス様を信じているかということは重要なテーマですし、私達の信仰の基礎でならなければならないと思います。
 キリスト教は何かということを一言で言うと 「イエス・キリストがその死と復活を持って、私達に永遠の命を与えて下さった」 ということが大きなテーマです。イエス・キリストがどういう人かによって私達の信仰生活に意味があると思います。
 イエス・キリストが他の有名な人々と異なるのは、秘蹟を起こす力、また復活されたから信じるのではないでしょうか。教会に来てお祈りするとそのことを神様がかなえて下さるという意味もありますが、もっと大切なのはイエス・キリストの復活によって、私達も永遠の命を得られるという確信、希望があるから私達はイエス・キリストを信じるのです。
 イエス・キリストという言葉も一つの言葉ではないですね。“イエス” と “キリスト” という二つの言葉が一つになっています。“イエス” は人の名前で、当時はありふれた名前でした。旧約時代のモーゼの後継者 “ヨシュア” から来ていますので、当時は “ヨシュア” の様になって欲しいと名付けられた名前でした。では “キリスト” はどういう意味があるのでしょうか。“救い主” です。ヘブライ語のメシアから来ています。ですからイエス・キリストとは “イエス” という普通の人間が救い主である “キリスト” になったとういうことを意味しています。私達はお祈りする時、いつも最後に 「私達の主イエス・キリストによって」 と結びます。イエス・キリストが一つの言葉であって 「イエス様こそキリストだ。イエス様こそ私達を救って下さる、永遠の命を与えて下さる存在だ」 と私達は祈る時に思い、誓います。しかし何故イエス様がキリストになるか。それは立派な人だから、奇跡を起こしたからイエス様はキリストだと思う訳ではなく、イエス様が死にうち勝って復活されたから、十字架につけられ死に葬られても神様の力によって復活されたから、私達にとってイエス様がキリストになるのです。
 その復活という意味は普通の、蘇生、蘇りとは全く違います。聖書にもラザロをイエス様が蘇らせるという場面がありますが、“復活” という言葉は使いません。もちろんイエス様にも蘇るという言葉を使いますが “復活” とは違います。復活とはラザロの様に死者から蘇生してある程度生きてまた死ぬことではなくて、蘇ることによって永遠に生きることです。復活とは私達の想像を遥かに超える言葉だと思います。そして単なる 「四旬節が終われば復活になる」 という意味ではなく、私達がこれから “生きられる” 様な生活としての復活をきちんと考えなければなりません。
 私達は喜びの復活を迎えるために色々な準備をします。今日、この太田教会では復活を迎えるための黙想を計画して私が招かれました。この黙想や赦しの秘跡を皆様は受けておられますが、その黙想や赦しの秘跡が単なる “年間行事” になるのは悲しいことです。他の教会でも四旬節や復活節には黙想会等が催され、素晴らしい話を聞くことが出来ます。しかしその話を聞いて 「あー、いい話だった」 と終わってしまうと本当の意味を失ってしまいます。復活の喜びを感じるための私達の心の準備が必要です。妊娠した母親は生まれて来る子供のために色々な準備をします。時にはタバコを止めたり、ご主人となるべく言い争いをしない様にしたり、良い音楽を聴いたりと女性が母親になるための努力は色々あります。それと同じ様に、“復活された” イエス様を迎えるための心の準備は大切だと思います。それで皆様は平日や日曜日のミサの前に赦しの秘跡を受けています。しかし赦しの秘跡を考える時、「告解する」「告白する」という意味が強いのではないでしょうか。“許し” と “告白”は違います。“告白” は自分が犯した罪に対して一方的に言い表すということです。しかし教会で設けた “赦しの秘跡” は、「自分は悪いことをしました。反省します」 と一方的に伝えるのではなく、それを告白する人とそれを許してくれる神様、司祭がその役割をしていますが、お互いに理解し合って、人が新しく生まれ変わる様な意味として赦しの秘跡があります。しかし大半の人々が自分の犯した罪を司祭の前で言わなければならないという圧迫感を感じるから、なかなか赦しの秘跡を受けられないのではないかと思います。だから赦しの秘跡は、自分の過ちを言い表すということだけではなく、必ずイエス様が司祭を通して許して下さるという確信が前提にならないと許しの本当の意味がなくなるのではないでしょうか。ですから、私達が赦しの秘跡を受ける時、「いやだな、自分のことをどう見られるのか」 と思ってしまうこともありますが、必ず許して下さるという確信をまず持つことが必要です。しかしその赦しの秘跡を受ける時には、自分の方からの準備が必要です。
 皆さん、朝何を食べましたか? パン? ごはん? 断食? 皆さん、今朝のことだから覚えていらっしゃるでしょう。昨日は何を食べましたか? 先週の月曜日は? 特別な行事などがあれば覚えていますが・・・ 1ヶ月前となるとどなたも覚えてはいらっしやらないでしょう。それは当たり前ですし、忘れないと困ることにもなります。
 もし、イヤなことを聞き、それを忘れないと眠れなくなってしまいます。だから忘れた方が良いこともあります。私達はすぐ忘れてしまう人間です。告解をするためには、毎日告解をするのであれば別ですが、大体の方が年に1回~2回ですか? そうすると1年前から今日まで自分が一体何をしたか、どの様な悪いことをしたか、どの様な良いことをしたかということを反省し、考えないと告白することが思いあたらないですよね。告解しようという気持ちを持ったなら、反省というよりはまず1年を振り返つて、どういうことが起こったか、どういうことをしたか等を振り返る時間が必要だと思います。その様な反省をする時間がないから告白する時も 「特に罪はないです」 ということになってしまいます。それでも神様は許して下さいます。それは本当ですよ。告解をしようとしてもまず自分の心がすっきりしないと、いくら司祭を通して許してもらっても心がきれいにならない。すっきりしない。すっきりするためには、まず自分がどの様なことを行ったかを考えるべきです。もちろん人から傷つけられたことはすぐに思い出すことが出来ます。しかし人を傷つけたことはあまり思い浮かんで来ないものです。告解を受ける前の準備としても10分、20分深く自分の生活を振り返って考える必要があります。その深く考えるということは、悪いことばかりではなく、その中での嬉しいこと、幸せだったこと、全部を考えながら 「あの時も神様が一緒にいて下さった」 と思い返すことが大切です。
 イエズス会を皆様ご存じでしょう。私達の神様の名前を付けた修道会です。イエスという名前を付けたということは、それだけイエス様に対する確信、イエス様に対する信仰が強かったということです。イエズス会は論理的な部分においても教会の教えをきちんと守っています。その修道生活を少し考えてみると、お祈りより自分を反省する時間をしっかり守っています。修道院ですから朝の祈りから寝る前の祈りまでありますが、その祈りには参加しなくても大きな問題にはなりません。しかし1日10分、15分の自分を反省する時間は必ず取らなければなりません。お祈りは私達にとって一番大切なものですが、イエズス会ではお祈りより反省する時間を守らなければなりません。何故お祈りより反省することが大切か。お祈りはもちろん私達と神様が会話する時間だと思いますが、人間が成長して行くためには、やはり自分を深く見つめ反省して行くことが優先だと考えるので、自分の1日を振り返る様な時間を取ることを勧めています。
  私達が祈る時、自分の望みや他の人が悩んでいることを思い返します。それはそれで大切なことですが、私達は自分のことを振り返ることがなければ成長して行くことが出来ません。その一環として赦しの秘跡があります。ただ許してもらえば良いということではなくて、赦しの秘跡を受けるために自分が成長して行く、それがないと何度赦しの秘跡を受けても心は全然変わりません。ですから、赦しの秘跡を受けるためには、まず心の準備をする必要があると思います。そしてその準備に加えて、今度は神様が 「私達の心を癒して下さる」 ということを信じることです。ただ許してもらう、何か悪いことをしたからそれを神様に許して頂く、きれいにして頂くことに留まるのではなく、今度は自分の心がきれいになって 「イエス様に似て生きること」 ができる様な者になれるということを確信する必要があります。
 ルカ福音書の中の 「放蕩息子」 の話をご存じでしょう。2人の子供のうち、弟は貰った父親の財産を使い果たし、ぼろぼろの状態で父親に謝ろうと思い帰って来ます。その息子を父親が許すという話です。この話は “放蕩息子” に焦点が当てられているようですが、しかしイエス様がこのたとえ話をなさったのは放蕩息子のことではなく、慈しみ深い父親のことを説明するためでした。何故かと言うとイエス様は罪人だと言われている人々と一緒に食事をしましたが、ファリサイ派の人達が 「汚れた者と一緒に食事をすると自分まで汚れる」 と考えていたからこの話をしました。ぼろぼろになった息子が、自分の過ちに気付き、父の元に帰った時、それを見つけたのは父親でした。「まだ遠く離れていたのに父は彼を見つけて、哀れに思い走り寄って首を抱き接吻しました」 と聖書にあります。普通に考えれば、自分の子供だとはいえ許せるものではありません。しかし 「まだ遠く離れていたのに」 とは、いつ帰って来るのだろうかと心配して、いつも待っていたということです。「もう子供ではない。帰っても許さない」 と思っていたら、外で待つことはありません。でもその子を待って外にいたから父親が子供を見つけたのです。“遠く離れた” ということはある程度距離があったと思います。たぶん息子は家を離れた時はお金があったから、着ている服も豪華な物だったでしょうが、戻って来た時は物乞いの様な服装でした。その姿を父が見たとしても、それが自分の子供であると思えない姿であったと思います。遠い所にいて、服装も変わっていても父が先に見つけたということは 「いつか息子は戻って来る」 と信じ、深い愛情を持って待っていたからです。「父は彼を見つけて哀れに思い、走り寄った」 のです! ただ子供が来るのを待っていたのではなく父から息子に走り寄ったのです。何歳かは分かりませんが、子供が帰って来たこと、自分の前に現れたということだけでも本当にうれしくて走って行ったのです。
 だから私達が神様に自分が過ちを犯したことを告白するということは、私達が告白する前から、神様は私達のことを知っているのです。ただ私達が心を開ければ、すぐそれに対して恵を与えて下さるという存在が神様なのです。だから私達が告白する時、私達より私達を知っておられる神様がいらっしゃることを考えれば、もっと気持ちを楽にして赦しの秘跡を受けることが出来るのではないでしょうか。それでも 「罪はないよ」 と思う方もまだ大勢いらっしゃると思います。特に日本人の場合はなるべく相手に迷惑をかけないよう生活をしているので大きな過ちも少ないと思います。
 赦しの秘跡を “罪” という観点で考えると、十戒にあるような大罪を犯す方はいないでしょう。しかし “自分の心のきれいさ” という観点で、赦しの秘跡を受けるのが良いと思います。“罪” がないから赦しの秘跡を受けなくても良いと言うのではなく、本当に自分の心が穏やかになっているか、安らいでいるかと言うことを考えてみれば、穏やかな気持ちで過ごしている方は少ないと思います。時にはイヤな気持ち、時には不安な気持ちを持っているから、それを告白して神様から恵を頂く気持ちが必要です。
 イエス様も聖書によると一度だけ感情を荒げたところがあります。神殿の中で物を売ってお金を儲ける人に対してでした。その時イエス様が怒ったことと私達が怒ることは違います。私達が怒るとその感情はずっと残ってしまいます。怒ったことで心が安定する人は一人もいません。子供を叱ってもその後、心がすっきりしません。
 心がきれいになるための赦しの秘跡が必要です。ですから赦しの秘跡を受ける時は、“過ち” ばかりに捕らわれず、自分が今どういうことで苦しんでいるか等を言っても良いと思います。その時、司祭と一緒に話し合い、理解してもらえれば、完全には癒されなくても神様の恵は感じることが出来ると思います。むしろ神様が完全に癒して下さったとしても、私達の心が完全に成長していないから 「完全に許してもらえなかった」 という気持ちになるのかも知れません。神様の恵は完全ですから、出来るだけその恵を思い起こせる様に努力しなくてはなりません。
 私は先週赦しの秘跡を受けました。その時とても悩みました。いつも心に引っ掛かっていたことですし、告解したいと思いましたが、司祭としてどの様に見られるか、特に知り合いの司祭に自分が犯した罪を告白するのはとても勇気のいることでした。しかしそうしないと自分がすっきりしないから、耐えられないから、その神父様がどの様に思ってもかまわない、神様から許してもらうと言う心だけで赦しの秘跡を受けました。受けた後は本当に心がすっきりしました。以前は 「ここまで言ったから、神様も分かってくれるだろう」 とその過ちの核心に触れること避けていたので、赦しの秘跡を受けた後もやはり心に引っかかりが残っていました。でも全てを神様の前に出して始めて 「神様は許して下さった」 という確信を得たから、もう二度と同じ過ちは犯さないという自信が生まれたのです。ですから、赦しの秘跡を受ける前には、自分の心を全部開こうという気持ちにならないと赦しの秘跡を受けても心が穏やかにならないのです。
 そして、赦しの秘跡を受ける理由は “回心” です。以前は “改心” という文字を使っていました。何が違うのでしょうか。“改める” という方が分かりやすいですが、私達が “回心” するということは、心を改めるということ、これから悪いことをしないで善を行うということだけではないのです。昨日の福音の中でファリサイ派の人と徴税人が神殿に行って祈ることが書かれていました。フアリサイ派の人は 「神様のお陰で私は罪犯していません。週2回断食をしています。収入の多くを神様に捧げています」 と祈りましたが、徴税人は神殿に向かって祈ることさえはばかり、「罪人である私を哀れんで下さい」 と祈ったのです。そして神様から許してもらったのは、罪ばかり犯しているとされる徴税人であると教えます。何故? ファリサイ派の人の様に私達の尺度の中で、良いことをしたか、悪いことをしたかということではなく、私達の気持ちがどこにあるかを神様が見て下さるのです。紙一重という言葉があります。いくら自分が立派なことをしたとしても、神様の立場ではどれも同じです。自分にとっては、他の人より良いことであっても、それはあまり変わりません。神様は天地の創造主で、私達を創造された方だから、いくらでも私達を作ることが出来るので、いくら私達が良いことをしたからといって、それで認められるのではなく、重要なことは私達が神様の前に立って 「自分は何の意味もない。神様の恵がないと生きて行けない」 と神様に言える人こそ神様の子供になれるのです。そういう意味で改めるという意味よりは、神様の方に心を回そうという意味で “回心” という字を使います。ですから回心とは、神様が何を望んでおられるか、神様の方に向くためには何をすれば良いかを考えることが本当の回心の意味ではないかと思います。その様な気持ちで赦しの秘跡を受けると必ず神様が聖霊を送って下さいます。
 また、私達は傷つけられることもありますが、むしろ自分が他人を傷つけこともたくさんあると思います。しかしその傷つけたことも神様から許して貰わないと気が安まらないのです。昨日、私はある信者の家庭でご飯をご馳走になった際、余計な一言を言ってしまいました。家に帰ってその人を傷つけてしまったのではないかと気付き、メールで 「すみませんでした」 と送りましたが、なかなか返事が来ないので落ち着きませんでした。その後 「大丈夫ですよ」 という返事をもらい心が休まりました。
 この様に自分の知らないうちに人を傷つけていることも結構あります。何故というと、私達は育った環境も違うし、考え方も違うから自分の一言が相手にどの様な影響を与えるかは誰も知らないからです。私は韓国人ですから 「韓国人は・・・」 と言ってしまいますが、韓国の人からは 「そんなこと言わなくても」 と不快に思われているかも知れません。同様に知らないうちに傷つけられることもあります。その時は気付かなくても後になって、ものすごく怒る様なこともあります。だから傷つけることもあるし、傷つけられることもあるから、その様なことを全部含めて神様の前で、「自分の気持ちはこの様になっています、この様な状態です、許して下さい」 という気持ちになれば、必ず神様は新しい気持ちを与えて下さいます。
 私達が復活祭を迎える心の準備は色々あります。節制することや断食をすることがありますが、その色々なことの中で大切なことは心をきれいにする作業だと思います。心がきれいにならないと復活祭に与ったとしてもあまり喜びはないと思います。一生懸命四旬節を過ごして来た人が復活祭のミサに与った時の気持ちと、何の準備もしないで与った人の気持ちは全く違います。私は毎年、灰の水曜日には、今年はどういう気持ちで過ごすか、どういうことを決心したかを必ず言います。何故かと言うとそれを言ってしまえば、守らなければならないから守るように努力するためです。そうすると40日はとても永く感じます。普段はさっと過ぎてしまう月日ですが、まだか、まだあると思ってしまいます。今年は毎日一人を選んでその人のために祈ると決心しました。しかし忙しかったりするとついお祈りをさぼりたくなることもあります。けれど決心したことを皆の前で言ってしまっているので、守らなくてはならないから祈ります。だから四旬節は辛いです。早く復活祭が来れば良いという気持ちになります。
 私達が四旬節を過ごすためには心の準備は大切です。何もしないで四旬節を過ごすと、毎年四旬節が来ても、復活祭が来ても心の状態が変わりません。喜びを得るためにはその準備の段階として、心をきれいにすれば本当の喜びが得られると思います。
 皆様は色々なことをしてこの四旬節を過ごしていらっしゃるかと思いますが、あと残りの期間を、どの様に過ごせば良いかということを深く考えて、喜びが与えられる復活を迎えられる様祈っています。
     
                                            ありがとうございました。
 

2008年
2月10日 2月17日
                      印刷用ページ(PDF PDF文書) 
このページの先頭へ                               四旬節第3主日 金 大烈 神父   2008年2月24日(日)
    
                            《白血球と赤血球、それは愛と犠牲》
  私達の身体の中には血管があります。血管の中には血液が流れていますね。血液の中にはものすごく大事な二つの成分があります。一つは白血球、もう一つは赤血球です。この二つの成分が身体の中でどんな仕事、役割をしているかご存じでしようか?
 まず白血球の仕事について説明します。白血球の役割は身体、特に血液の中に悪い菌、病原菌が入ってきたらそれをなんとか処理することです。では白血球はどのようなやり方で悪い菌を追い出すと思われますか? 何か力ずくで、怖い方法でその菌を殺したり、追い出したりするのでしょうか? いいえ、白血球はただ自分の胸を開いてその菌を抱きしめるんです。そうするとその菌は白血球の愛にうっとりした気持ちで感動して、そのまま溶けてしまいます。それが白血球のやり方です。白血球は 「お前はなぜそんなに悪いのか。なぜ醜いのか」 とは言わない。ただ胸を開いて悪い菌を抱きしめるだけです。
 赤血球はどのような役割をするのでしょうか? 私達の身体には酸素が必要ですね。赤血球は酸素を持って身体中を回ります。酸素が必要なところを見つけたら、自分の中にある酸素を惜しまず、残らず与えます。そして、ある期間(四日間)経つと静かに死にます。これが赤血球の運命です。
 今この瞬間にも、私達の身体の中ではこのような犠牲が行われています。この二つの成分のおかげで私達の身体がうまくいくようになっているのです。
 四旬節第三主日の今日、なぜこのような訳の分らない話をするのかと思われる人もいらっしゃるでしょう。
  四旬節にまず思うことは何ですか? 「回心、悔い改め」。 そう、それは正しいことです。しかし、悔い改めるために何が必要ですか? もし誰かに 「四旬節は回心しなければならないよ」 と言われて、「何を回心したらいいのか?」 と考えるようで、本当に回心できるでしょうか? ではどうすれば回心することができるでしょうか?
  四旬節は “痛み” ですよね。十字架を黙想しなければならないです。しかし私達が回心に近づくためには痛みの中に隠れている “愛” を感じなければなりません。四旬節は私達がイエス様から実際に受けている “愛” を体験する季節です。いつも痛みや十字架ばかり考えているだけでは本当に必要な回心ができなくなります。
 私達の身体の中で二つの成分がすばらしい仕事をしながら生きている。このことは、私達が誰でもこのようなすばらしい生き方をすることができる、ということを証明しています。なぜなら、自分の身体の中にこういうすばらしい働きが行われているからです。ある人は 「私は寛大な心、許す心を見せようと思っても、生まれつきの悪い性分でそんなことはできない。私が優しくしたら変わったと言われてしまう」 と言うかもしれません。しかし、殺人犯といわれる人の中にも、イエス様を裏切って殺したユダの身体の中にも、白血球と赤血球は働いていました。
 よく考えて下さい。私達は可能性です。すべての皆様は可能性です。可能性とはなんですか? まだ完全に造られていないことです。ですから可能性として進まなければなりません。そしてその基準、けじめは “愛” でなければなりません。でも私達は愛は苦手、下手です。なかなかむずかしいです。しかし、基準としては愛をいつも意識しなければなりません。私達の中で、顕微鏡でも見えないような小さな二つの物が本当に力を出して頑張っているのですから、その姿を見習って、私達もすべてのことのために愛を体験しなければなりません。
 お願いします。復活祭まで四週間残っています。犠牲すること、断食すること。その意味は何でしょうか?イエス様は私達が犠牲することを望んでいらっしやいません。ではなぜ犠牲するのですか? 犠牲を通して愛を感じてほしいからです。断食して、食べるものがない子供たちのことを思い出す。気の毒な人達の状況をほんの少しでも体験する。そうすれば何をしたら良いか考える。それが神様の願っていらっしゃることです。
 もう一度考えてみましょう。数週間後に迎える復活祭が喜び、完璧な希望として私達の体験になるために、まず、皆様の中に眠っている、そして、恥ずかしくて表に出せなかった愛の可能性をこの四旬節の間に感じてみて下さい。そうしたら周りの人だけでなく、自分を喜ばせる何かの体験ができると私は確信します。
 今からでも頑張れば手遅れではありません。このミサを通して心をこめて祈り、神様にその恵みを願いましよう.
 今日このミサの後、韓国語のミサと黙想会、その後、フィリピンの人達のための英語のミサと黙想会があります。私にとっては大変な一日です。皆様、私のためにもお祈りをお願いします。
     
                                            ありがとうございました。
 

                      印刷用ページ(PDF PDF文書) 
このページの先頭へ                                 四旬節第2主日 金 大烈 神父   2008年2月17日(日)
    
                            《憎しみや怒りを生じないように祈ってください》
  今日はミサ後、教会総会があるので簡単にお話しさせていただきます。
  何日か前の平日ミサで申し上げたことです。
  私達はいろいろ祈らなければならないことがありますね。例えば、家族の健康や幸せ、こどもの健康や幸せ、又世界の平和のため、体のため、精神のため等、いろいろな意向を持って祈っています。その中で特に必ず入れて欲しい意向があります。
 それは 「憎しみの心をなくして下さい。憎まない心を下さい」 という祈りです。私達が平安な心を失う場合、大体その中は憎しみと怒りがあります。怒りと憎しみというのは、私達に何の役にも立たないほんとに損になるだけ悪いことです。しかし私達は毎日何かあるたびに怒りを見せたり、憎しみをもって自分の平安な心を破ってしまうことが結構あります。
  しかしこの怒りとか、憎しみというものは、人間の意志によって心によってコントロール出来るものではありません。憎しみ、怒りというものは何かに対しての反応として自然に中から出てしまうものだから、抑えようとしても出てしまいます。勿論、出てきた怒りを表面的に隠すことはできるかもしれません。しかし、自分の中ですでにある怒りと憎しみはそのまま存在して、その人のすべてに否定的な影響を与えます。
  皆様にお願いします。この怒りとか憎しみというものは生じる前に生じないように願わなくてはなりません。即ち、神様の助けによって、憎む心、怒る心が生じないように祈らなくてはならないと言うことです。なぜなら、憎しみと怒りは抑えられるものではないからです。ですから皆さまが祈るとき、必ずこの意向を入れて下さい。
  「イエズス様、なんとか私の心の平安を壊すいろんな否定的な感情を、特に憎しみや怒りを生じないように導いてください」。 本当にこのような祈りしていると自分の知らないうちに、「自分はこんなに寛大な人間だったのか」 と思う位の体験ができます。
  健康な怒りという言葉はありません。「適当な怒りは自分の発展のために必要なことだ」 という人がいるかもしれませんが、決してそういうことはありません。なんの役にも立たないです。ですからこの怒りや憎しみを生じないようにイエズス様に祈って下さい。必ず効果があるはずです。皆様にそのことが見えるようになると思います。そういうことによって失っていた平安な心、平安な家庭が取り戻せると思います。
     
                                            ありがとうございました。
 

                      印刷用ページ(PDF PDF文書) 
         
このページの先頭へ                              四旬節第1主日 金 大烈 神父   2008年2月10日(日)
    
                                  《十字架の道行の黙想》
始めの祈り
  私たちの目には、あなたが私たちの救いのために歩まれたこの道がまったく愚かなものにしか見えません。神様であるあなたが、なぜこんな道を歩まなければならなかったのか、いくら考えてみても、分からないのです。
  あまりにも私たちのことをご存知だったからですか?
  もし、そうでなかったら、あなたが仰った通りに、この世はあなたの王国ではなかったからですか?
  難しいのです。あなたのその御心を汲み取るのが、とても難しいのです。そうして、悲しいのです。
  私たちの希望であるあなたが、今この瞬間にも私たちのためにこの道を引き続いて歩かれているのを見ると、胸がはりさけるほどに痛いのです。
  この道の終りはどこですか?
  主よ! よく分からないのですが、あなたのその愚かな道を私たちも付いて参ります。
     
第一留:キリストが死刑の宣告を受けているのを黙想しましょう。
  イエス様、あなたは人々の見ているところでピラトという総督の前に一言も言わずに沈黙を守りながら立っておられます。誰もあなたが神様の御子だとは気が付かない程、あなたは、この上なくみすぼらしいのです。
  主よ! あなたは本当に神様の御子ですか? 私たちがあれほど待ち望んでいたその方ですか? 
  なぜ、一言もおっしゃらないのですか? どのようにして人間という存在が神様を裁けるのですか? 
 主よ、あなたはとうとう、この道を選ばれました。その理由が分かるように助けてください。
  
― キリストよ、あなたは尊い十字架によって全世界を贖いました。
― 私はあなたの十字架を崇め、あなたに感謝します。
  
第二留:キリストが十字架を担うのを黙想しましょう。
 あなたの担われているのがまさしくその十字架ですか? 重いのですか? どのくらい重いのですか?   私たちはよく知っております、その十字架の重さを。私たちのあらゆる罪の重さ、私たちのすべての悲しみと苦痛と怒りと悪の入ったその重さ。想像さえしたくない、その重さがその背中にあります。すみません。  主よ、よく分かっておりますが、今日も私たちはあなたにもっと重い十字架を負わせています。お赦しください。
   
― キリストよ、あなたは尊い十字架によって全世界を贖いました。
― 私はあなたの十字架を崇め、あなたに感謝します。
  
第三留:キリストが始めて倒れるのを黙想しましょう。
 結局、倒れましたね。倒れるあなたの姿を見るわたしたちの心を推し量ろうとなさったのでしょうか? ただ、見守ることしかできない、この卑怯な心をご存知ですか? そうです。主よ、私たちはこんなに弱い存在です。愛している人のためにも、勇気を出せない馬鹿者たちなのです。お赦しください。
 主よ、あなたは立ち上がらなければいけないのです。私たちの力だけでは歩くことのできないこの道、あなたが一緒に歩んでくださらなければならないのです。主よ、少しでも私たちがあなたの足になることができるように、力づけてください。
  
― キリストよ、あなたは尊い十字架によって全世界を贖いました。
― 私はあなたの十字架を崇め、あなたに感謝します。
  
第四留:キリストが母に会うのを黙想しましょう。
 お母さんです。あなたのお母様です。そのお母さんが、あなたのその姿を見ていらっしゃるのです。お母様が泣いていらっしゃるのです。あなたを生んで、育てられた、そしてすべてを共になさった、その美しい心が泣いていらっしゃるのです。その心をご存知ですか? おそらく、この世の中の誰よりも、あなたのその痛みを理解しているのは、あなたのお母様だけであることを信じます。
  
― キリストよ、あなたは尊い十字架によって全世界を贖いました。
― 私はあなたの十字架を崇め、あなたに感謝します。
  
第五留:キリストがクレネのシモンに助けられるのを黙想しましょう。
  シモン、あなたは本当に運が悪かった人です。なぜ、どうして、その道を通ったのですか? なぜ、どうして、そんなに大勢の群集の中であなたが見つかって、そんなに重い十字架を代わりに担ってしまうことになったのですか? 十字架を担いでゆくイエスという犯罪者を知っていましたか? 以前に出会ったことでもありますか? 悔しくないのですか? 
 シモン、あなたは本当に運が良かった人です。どの人も、敢えて出来なかった事をあなたがしたのです。私たちはこれを「召し出し」と言います。聖なる呼び掛け! 私たちは毎瞬、直接にその方から呼び掛けられているのですが、答えるのがなかなか難しいのです。あなたは本当に祝福された人です。
  
― キリストよ、あなたは尊い十字架によって全世界を贖いました。
― 私はあなたの十字架を崇め、あなたに感謝します。
  
第六留:ベロニカがキリストの顔を布でぬぐうのを黙想しましょう。
 ベロニカ、美しい女の人よ! あらゆる女性たちが学ばなければならない女の人よ。あなたを愛しています。血だらけになられたイエス様がそんなに気の毒だったのですか? 堪らないほど心が痛かったのですか? あなたの手にあるその布は愛そのものです。女の人の美しさは受け入れる事にあります。恐らく、イエス様はあなたの愛の行為で少しでもお休みになって、幸せを感じられたのでしょう。 今の私たちがもう一度求めなければならないのは、その勇気と憐れみの心です。
  
― キリストよ、あなたは尊い十字架によって全世界を贖いました。
― 私はあなたの十字架を崇め、あなたに感謝します。
  
第七留:キリストが再び倒れるのを黙想しましょう。
  また、お倒れになりました。あなたの踏み歩かれる一歩一歩を見ている私たちの胸はどうなると思われますか? 私たちの泣き声が聞こえないのですか? いくら考えても、神様、あなたは本当に愚かです。あなたは愛に訴えて、そしてその結果、愛ではなく苦痛を貰われました。 愛は苦痛ですか? 主よ! 畏れ多いのです。愛がそんなものだったら、弱虫の私たちがどうしてその愛を理解することが出来るのでしょうか? 主よ、もし、あなたのその道が正しかったら、私たちにもその道を歩める悟りを許してください。
  
― キリストよ、あなたは尊い十字架によって全世界を贖いました。
― 私はあなたの十字架を崇め、あなたに感謝します。
  
第八留:キリストが婦人たちに言葉をかけるのを黙想しましょう。
 本当に、あなたは仕方がない方です。その状況でもあなたは婦人たちを慰めておられるのです。その憐憫の終りはどこですか? その力はどこから出てくるのですか? 本当にあなたはどうしようもない方です。そうです。多分、私たちはみな、あなたにそのように痛みを与えながら、厚かましくあなたの慰めを必要としているのかもしれません。あなたのその愛を私たちのものにするように助けてください。
  
― キリストよ、あなたは尊い十字架によって全世界を贖いました。
― 私はあなたの十字架を崇め、あなたに感謝します。
  
第九留:キリストが三度倒れるのを黙想しましょう。
 主よ、気力が尽きたのですね。あなたに何もやってあげることが出来ない私達の心は、ただ、子供のように声を出して泣きたいのです。主よ、ちょっとだけでもお休みになってください。まだ行かれる道が遠いのです。結局また立ち上がられるあなたを通して、私たちも転んでもまた立ち上がることを習います。
  
― キリストよ、あなたは尊い十字架によって全世界を贖いました。
― 私はあなたの十字架を崇め、あなたに感謝します。
  
第十留:キリストが衣服をはぎ取られるのを黙想しましょう。
 遂に、ゴルゴタの丘にお着きになりました。残っているのは今までのどの時よりも恐ろしくて痛い道です。刑吏たちが服をはぎ取ります。神様の御子の服が、神様の創った存在の前ではぎ取られています。主よ、憐れんでください!
 恥ずべき事には恥ずかしがらなくて、要らないことに恥ずかしがっている私達の姿がそこにあります。主よ、私たちに知恵を与えてください。
  
― キリストよ、あなたは尊い十字架によって全世界を贖いました。
― 私はあなたの十字架を崇め、あなたに感謝します。
  
第十一留:キリストが十字架にくぎづけられるのを黙想しましょう。
 釘が身を突き抜けて木の板に打ち込まれるその音で私たちは目を閉じてしまいました。この罪をどうしたらよろしいのですか? 人間が犯せる罪の中で最も深い罪は何でしょうか? それは、神様を殺す事ではないですか? 考える事さえ怖い犯罪を私たちは犯してしまいました。今、この時代に暮らしている私たちも私たちの罪によってあなたにまたちがう釘打ちをやってしまっています。それがよく分かっております。主よ、赦してください! 主よ!けれどもあなたはこんなおびただしい犯罪を通して救いの門が開いたと仰せになりました。それだから、あなたはこの十字架の道を必ず歩まなければならなかったのだと仰ったのです。主よ、あなたの御心を推し量る知恵を与えてください。
  
― キリストよ、あなたは尊い十字架によって全世界を贖いました。
― 私はあなたの十字架を崇め、あなたに感謝します。
  
第十二留:キリストが十字架で息を引き取るのを黙想しましょう。
 息を引き取られました。極みまでへりくだる姿で来られ、限りなく低い姿で生きられて、徹底的に悲惨な姿で逝かれました。あなたは十字架に釘付けられた時にも私達の罪のために赦しを求める祈りをなさいました。私たちが知らずに犯した罪だから赦してくださいと祈られました。どうしてそうなさったのですか? 私たちもあなたのように暮らすようにという事でしょうか? なぜ、こんなに難しい要求を十字架の死を通して見せてくださるのですか?
  主よ、あなたを愛しています。
  
― キリストよ、あなたは尊い十字架によって全世界を贖いました。
― 私はあなたの十字架を崇め、あなたに感謝します。
  
第十三留:キリストが十字架からおろされるのを黙想しましょう。
  あなたの身は既に冷たく冷えています。肌が裂けた体は血だらけで汚れています。あなたが見せようとしたものはこのような無能な姿だったのですか? なぜ、一言も仰らないのですか? あなたを抱いて泣いている母マリア様を少しでも考えてくださったら、こんなことは出来るはずがないのです。お母さんはずっと静かに泣いていらっしゃるのです。彼女はあなたの道を理解したかもしれません。けれども、私たちにはあまりにも力不足です。あなたに従おうとする私たちを力づけてください。
  
― キリストよ、あなたは尊い十字架によって全世界を贖いました。
― 私はあなたの十字架を崇め、あなたに感謝します。
  
第十四留:キリストが墓に葬られるのを黙想しましょう。
  あなたはもう何も語られない。人々は絶望する気持であなたを葬っています。本当に大したお方ですね。この世に来られた時にも借りた馬屋だったのに、亡くなられたときもお墓を借りて行かれますね。ご自分のものは御心のほかには何もなかったのですか? 主よ、あなたをこのようなかたちで見送るのが辛くて恐ろしいのです。でも、主よ、私たちは信じます。あなたがこれほどまでに私たちに教えようとなさったその教えを信じます。死は単なる死ではなくてあなたと共に永遠に生きるための始めだということを信じます。
  主よ、安らかに休んでください。本当に、お疲れ様でした。あなたの教えを心に留めて生きてゆきます。
  
― キリストよ、あなたは尊い十字架によって全世界を贖いました。
― 私はあなたの十字架を崇め、あなたに感謝します。
  
結びの祈り
 主よ、私達のこんなに恵まれた時間を赦してくださってありがとうございます。恥ずかしいのですが、告白します。あなたを愛しています。もうすぐ復活の栄光を主が私たちに見せてくださるのを信じます。私たちもこの四旬節を通して主のみ心に適うよう生活して真の復活の喜びを体験することが出来るように助けてください。
 あなたは美しいのです。私たちも美しくなりたいのです。あなたの中にいるときに私たちも美しくなれることを信じます。アーメン
 

2008年
1月1日 1月6日 1月13日 1月20日
                      印刷用ページ(PDF PDF文書) 
このページの先頭へ                                 年間第3主日 金 大烈 神父   2008年1月27日(日)
    
                              《塩の人形の話: 「あなたは私でした」》
 今日、皆様に私の好きな物語の一つをお話させていただきたいと思います。
 それは、18年前スペインから来られたある神父様から聞いた話です。その人は私にとって霊的な指導をしてくださる方でした。私はその方に出会って自分の人生が変わりました。ですから皆様にとっても、大きな助けになると思います。
   
 “塩”でつくられた人形の少年がいました。その少年は大きな親の愛の中でいつも自分が一番幸せだと思いながら暮らし、人生を楽しんでいました。ある日、目が覚めた時、窓から強い朝日が差し込んでいました。その光の眩しさの中で何となく自分の知らない心の動きを感じました。
 「今まで自分が一番幸せだと思っていたけれど、まだ知らないものが外にはあるのではない」
 「いつも親のひごのもとにいたけれど、親を離れて私が知らなければならない何かがあるのではないか」
 「外に出て私はそれを確かめなればならない」
 何日か考えた後、少年は親に家を出る許しを求めました。しかし 「おまえは私達のもとを離れたら苦労ばかりになる。おまえを守ってくれるものは何一つない。だから余計なことを考えずに私達のもとにいなさい」 と許されませんでした。塩の少年は自分の部屋に戻ります。しかし 「何とか知りたい」 という気持ちを抑えきれず、ある晩少年は簡単な荷物を持ち、黙って家を去りました。塩の人形の旅が始まりました。
  ある日、一抱えに余る “けやきの木” が現れました。少年は 「あなたは誰ですか?」 と尋ねました。
  「私はけやきだよ」
  「けやきって何?」
  「本当に私を知りたかったら、私に近づいてごらん」。
  少年はけやきに触りました。
  「あなたは光から影とそよ風を作ってくださるのですね。疲れが取れて気持ちがいいです。ありがとう!」
  少年はまた旅を続けます。次に “大きな岩” が現れます。「あなたは誰ですか」 と、また同じように少年は尋ねます。そして触ると堅く冷たいことを知りました。旅人が座って休めるところになることも知り、満足しました。  また旅を続けると “そびえ立つ山” が現れました。「あれは何?」 「あのてっぺんに行ったらこの世の中が全部見えるかも知れない」 少年は一気に走って山に登ります。頂上に着き、息も苦しくなり暫く座ってふと顔を上げると、自分の胸がどきどきしました。
  「何だろう」 その頂上から見えるものがありました。それは海でした。ものすごく大きく力強く見えました。そして柔らかそうにも見えました。それに聞いて見たい。少年はまた走り出しました。そして砂浜にたどり着き、それが何であるか尋ねようとしましたが、あまりに波の音や鳥の鳴き声が大きく、自分の声がそれに届かないのではないかと思いました。しかし勇気を出して聞きました。
  「あなたは誰ですか?」 答えはすぐにはありません。
  「あなたは誰ですか?」
  「私は海だ」
  「海って何ですか?」
  「海はただ海だよ」
  「分かりません。説明してください」
  「少年よ、この世の中には言葉で説明出来ないものがある。私もその一つで、私は “海” としか答えようがないのだよ」
  「おまえが本当に私を知りたければ、何の心配もせずに私の所にきて欲しい」
  今まで色々なものに出会い、それを知り満足していた少年は、何のためらいもなく足を一歩海の中に踏み入れました。
  さあ、どうなりますか? そうです。塩で出来ている少年は溶け出します。
  「あーっ」 という悲鳴を少年はあげました。あまりの痛みに泣き出しました。
  「私はただあなたを知りたかっただけなのに、何故あなたは私にこの様な苦しみを与えるのですか」 と大声で叫びました。しかし海からは何の返事もありません。そしてしばらくして穏やかな声が響きました。
  「少年よ、本当に私を知れたければその歩みを進めなさい」
  少年は迷いました。その足は溶けて半分程になっていました。今でも苦しいのに更に進むべきか、大きな迷いが少年を襲いました。
  「あなたを信じて私は入ります」
  少年は思いきって歩み出しました。進む程に自分の身体が下の方から溶け出し無くなってしまうのを感じました。そして胸まで海に浸かった時、大きな波が彼をつつみました。少年は悟り叫びました。
  「あっ、あなたはまさに私でした。私自身でした」と・・・。
  
  この様なお話です。私はこの話を聞いて1ヶ月以上黙想しました。ある人は野原で神様に出会ったと叫びます。ある人は “けやき” に出会って 「私は神様を知っています」 と言います。またある人は苦労しながらも “山” に登って 「私はこの世の中を全て知っています」 と言います。
 「私は神様について完璧に理解しています」 と言う人もいます。ある人は浜辺まで行き、海を見て 「これは自分には理解出来ないものだ」 と考える人もいます。一歩踏みだし足を海にいれて、「神って痛みだよ」 という人もいます。その “海” に、この世の中の素晴らしい言葉を当てはめてみてもいいと思います。例えば、愛、神様、正義、平和という言葉に代えてもいいでしょう。私達それぞれは、自分が今まで感じていたものが全部だと思いながら、そういうことで愛について、神様について、正義について説明しようとしています。しかし本当に神様を、愛を、平和を悟ったと言えるのは、自分身体全部を海の中に入れて 「あなたは私でした」 と告白が出来る人だけです。
 私は20年間、皆様の前で神様について 「こんな方だよ」 と色々な話をして来ました。しかし本当に神様を “体験” して “出会って” からこの様な話をしているのか、自分の頭の中にあるものだけで伝えようとしていないだろうかと反省しそして祈ります。
  さあ、皆様はどこに立っているのでしょうか。まだ家の中に閉じこもっているのでしょうか。決心して旅立ったのでしょうか。 “けやき” に出会った嬉しさに 「あ、これが全部だ」 と思っていらっしゃるのではないでしょうか。山の頂上まで登られたのではないでしょうか。浜辺で足を海に入れようか入れまいか迷ってらっしゃるのではないでしょうか。これが信仰の道です。
 私達は “海” に入らなければならない。そして必ず条件があります。それは何でしょうか。それは “痛み” です。 “痛み” なしに神様に出会うのは難しいことです。出来ないことです。そういう意味で、私達のカトリック信仰は “十字架の信仰” と言われています。皆様、色々な “痛み” をお持ちでしょう。その “痛み” を神様に、イエス様に出会う一番の宝物として付き合って下さい。人との別れも痛みです。それも貴重なものとして受け入れて下さい。私達は 「ここまで来ています」、「ここに立っています」 と真剣に考えてみましょう。何十年信仰の生活をしても神様についての具体的な体験が無かったら悲しいことです。何よりも皆様が求めなければならないのは神様との、イエス様との出会いです。その出会いのために力を注いで下さい。一番大事なことです。そしてその中で体験する痛みを避けようとしないで下さい。この様なことを理解出来れば私達はどんな環境の中でもイエス様に出会えます。
 今日の福音で、イエス様は 「悔い改めなさい、天の国が近づいている」 とおっしゃいました。これはこの世の終末に限られるものではありません。それぞれが 「本当に私は神の国を体験しているのか」、「自分の目の前にあるのに気付いていないのではないか」、「それを知ろうとする心がないのではないか」、「近づいている神の国を見ないようにしていないか」 考えてみましょう。  
                                            ありがとうございました。
 

                      印刷用ページ(PDF PDF文書) 
このページの先頭へ                                 年間第2主日 金 大烈 神父   2008年1月20日(日)
    
                                  《「人を知る」 ということは・・・》
 「あの人、誰?」 「あの人知らないの? 谷司教様じゃないの。」
 「あの人、誰?」 「あのシスター? シスター・オフェリアよ」
  このような会話は私達の間でよくありますよね。何かを知るということ。皆様が知っている物はたくさんあると思いますが、皆様が知っている人はたくさんいらっしゃるでしょうか? 物を知る、ということは言えることだと思います。
   しかし、人について 「私はあの人を知っている」 「知る」 ということはどういうことでしょうか?
「人を知る」 ためには少し条件があると思います。例えば、この前の総理大臣は誰でしたか?
「安倍さん」、その前は? 「小泉さん」、そうですね。皆知っていますね、その人の名前は。しかし、総理であること以外、彼について何を知っていますか? 彼の心を知っていますか? もし、私達が 「あの人のことを知っている」 と言うときは、何よりその人の心の動きとか心の状態をわからなかったら、「知っている」 というのは無理です。
  皆様が私、金神父のことを誰かに説明するためには、まず私の心を読んで下さい。心の中に入って測るべきです。長い間夫婦として同じ屋根の下で暮らしていても、相手が別人のような気がする時があるでしょう。これが人間です。私達がある人を 「知っている」 というためには、その人の心の中に入ろうとしていたか、その人の心の動きを注意しながら、その心を見ようとしていたか、そういう努力が必要です。
  その人が何が好きで、何を悩んでいて、何を怖がっているのか。何で心を痛めているのか、何を望んでいるのか。その人にとってこれは良いことか、悪いことか。まず基本的なことを私達は測らなければなりません。何故なら私達がよく犯すまちがいがあります。それは、自分の測りで人を測ることです。自分の目で、自分の基準で人を描いてしまうことです。自分の目で見ただけで人を判断する。しかし、それは自分勝手な測りによって測られた相手です。自分の測った重さ、広さ・・・等で、その人はこういう人だと思ってしまう。しかし、そうではありません。
 今日の福音で洗礼者ヨハネは 「あの人を知らなかった」 と二回言っています。
さあ考えてみましょう。誰かを知るためには、その人が何を望んでいるか、何を悲しんでいるか測るべきだと私は思います。その相手がイエス様だったらどうです? 皆様イエス様を知っていますね。しかし 「私はイエス様を知っています」 と言うことができるためには、イエス様のみ旨は何か、何を喜ばれるのか、何を悲しまれるのかを測ろうとするのが、私達の正しい態度だと思います。要理の勉強で頭に入れたことは、実際には意味がないかもしれません。
 本当に祈りとは何でしょうか? まず「神様のみ旨は何だろう」 という黙想です。
「イエス様、私がこれをしたらあなたは喜ばれるでしょうか? それとも悲しまれるのでしょうか? どうか導いて下さい」 というのが祈りです。
 イエス様について、マリア様について、私達が信じている相手、知っている相手について、どの位心を込めて見つめてきたか、まず振り返ってみる必要があるのではないかと思います。
 家庭訪問が始まりました。皆様の中には、疑問を持っていらっしゃる方もいると思います。
「なぜ家庭訪問をするのか?」 と。単刀直入に申し上げます。それは皆様のことを知りたいからです。私が担当司祭として、皆様の顔だけを見て 「私はあの人を知っている」 と言いたくないのです。その生き方、環境など知りたいのです。まず皆様の家まで足を運んで行って、どのような雰囲気の中で暮らしているのか、何を悩んで、心配しているのか、それを知りたいのです。それを知らなくてどのような司牧的な仕事ができるでしょうか?
  家庭訪問するのに一日6時間かかります。一軒1時間で6件です。実際私も疲れますよ。私は幾つかの簡単な質問をするだけで、皆様が話します。私はほとんど聞くだけですから疲れます。しかし、しなければならないことですからします。それは今日の福音の 「知る」 ということ通じるところがあると思います。その人を知らなくて導くことはできません。できる限り皆様のところに直接行って感じたいのです。心配なさらないで本当に心の中にあることを話して下さい。そんなに深刻な質問はしませんから安心して下さい。中には私が聞かないことまでよく話して下さる方もいらっしゃいます。それが自然です。話したいことは全部話して下さい。私はそれを墓まで持って行きますから心配しないで下さい。
 この家庭訪問は外国人までやると、少なくても6ヶ月以上かかると思います。でもやります。皆様のご協力をお願いします。
 整理しましょう。私達が誰かを 「知っている」 という言葉を使うためには、その人の心を知ろうとする努力が必要であるということを覚えておきましょう。
                                            ありがとうございました。
 

                      印刷用ページ(PDF PDF文書) 
このページの先頭へ                                 主の洗礼の祭日 金 大烈 神父   2008年1月13日(日)
    
                 《主の洗礼・あなた方は私の愛する子、私の心に適う者》
 今日はイエス様がヨハネによって洗礼を受けられたことを記念する祝日です。教会の典礼歴によって明日から、私の着ている祭服の色も緑に変わります。これは主の洗礼を最後にして翌朝から年間の週間に入ることを意味しています。
 なぜ主の洗礼の祝日を最後にして年間の週間に入るのでしょうか。それには理由があります。それは私達が洗礼を受けた日を思い出しながら、改めて信仰的にもう一度新しい気持ちで頑張って行きましょうという意味があります。
 イエス様は洗礼を受けられました。その様にしなければならない理由もないように思えるのですが、イエス様は洗礼を授けるのではなく、洗礼を受けられました。その位 “洗礼” は神秘的な秘跡です。その時、天が開いて何と言いましたか。 「これは私の愛する子」 そして 「私の心に適う者」 という声が聞こえて、聖霊も鳩の様な姿でくだったと今日の福音は伝えています。
 さあ、質問をします。この出来事は2000年前イエス様が洗礼を受けられた時だけに起こったことでしょうか。 「これは私の愛する子、私の心に適う者」という言葉はイエス様だけにかけられた言葉だったのでしょうか。
 いいえ、そうではありません。皆様が洗礼を受けられた時にも必ずこの様なことが起こりました。これは私達が信じなければならない一つの信仰です。それくらい洗礼は偉大なことです。私達が洗礼を受けた時にも天が開け、「これは私の愛する子、私の心に適う者」 という天からのみ言葉があって聖霊もくだったのです。ただ私達が気付かなかっただけです。それを意識する日が今日なのです。私達の洗礼を振り返ってみる日です。
 「これは私の愛する子、私の心に適う者」 とはイエス様だけに話されたみ言葉ではありません。私達が洗礼を受けた日、私達に神様がおっしゃったみ言葉です。
 すなわち皆様は神様に愛されている “息子” “娘” なのです。そういう意識が何よりも大事なことです。その意識がきちんと身に付いたら、自分に対して軽く考えなくなります。神様が本当に “私” を大事にしていらっしゃることを悟りながら、感謝する気持ちになります。
 さあ、私達は 「神様の愛される息子、娘」 です。そして 「神様のみ旨に適う者」 になれるよう努力することが、私達の使命であり、役割ではないかと思います。
 また幼児洗礼を受けた方以外は、自ら希望して洗礼を受けられ、すすんで信仰の生活を送られています。また近い内に洗礼を受けられる方もいらっしゃいます。
  さあ、皆様思い出して見て下さい。私達は洗礼を受けてから結構変わりました。出来るだけ罪を避けようとしてきました。そして愛を実践しようと努力してきました。信仰の生活を出来るだけ充実させようとしたし、教会の秘蹟の生活にもある程度親しもうとしました。 「神様の心に適う者になりたい」 と努力し、与えられた自分の人生を出来るだけ肯定的に見るよう努め、未来に希望をおく生き方をしました。洗礼を受けた時、その気持ちは本当に強いものでした。
  さあ、今はどうでしょうか。今もその熱心な気持ちを保っているのでしょうか。少し生ぬるくなったところとか、鈍くなったところはないのでしょうか。本当に私は生き生きと洗礼の恵を感じながら、積極的に神様のみ旨に適う者になるために頑張っているでしょうか。日曜日のミサが面倒くさく感じないでしょうか。この神父の口から出る言葉が退屈ではないでしょうか。もしその様な気持ちが少しでもあったら取り戻しましょう。
洗礼を受けた時、溢れていたあの気持ち、最初の気持ちを取り戻しましょう。それが主の洗礼の祝日に、私達がもう一回決断すべきことではないかと思います。
 もう一つ申し上げたいことがあります。私達は要理の勉強の時間に 「洗礼を受けると受ける以前に犯したあらゆる罪を赦される」 と教えて頂きました。それは確かな私達の信仰の一つです。 「全ての罪、過ちそして失敗がすべて赦される」 それは大変なことだと思って洗礼を受けました。即ち、主は洗礼の恵によって私達の罪を洗って下さいました。それについて私達は神様に感謝しています。しかしもっと成熟した信仰の生活になるためには、その 「罪から赦されるために」 という言葉に留まってはいけません。正しい信仰の生活は 「どの様にすれば罪を避けられるのか」 ということだけではなく、「どの様にすれば恵を感じながら、その恵を大事にすることが出来るのか」 を考える生活を意味します。
 怖がって逃げてもそれは解決にはなりません。愛が基本にならなければ、神様も私達にとってあまり意味がありません。怖くて信じる神様は意味がありません。私を愛してくれたから、私自身も意乱しないうちに 「私が愛してしまう」 そういう神様が私達に必要です。
 熟された信仰の生活というのは、神様から頂いた恵を敏感に感じられる。そしてその恵をどの様にすれば大切に出来るかを考えながら生きる生活です。これが洗礼の秘蹟が見せてくれる教えではないかと思います。
 今日、成人の日を迎えた子供達、また皆様の子供達も、時には 「親から一方的に洗礼を受けさせられた」 と悩んだことがあるかも知れません。しかし洗礼は大きな賜です。今はまだはっきり分からないかも知れませんが、いつか 「何よりも大事な宝物をくれた」 と親に必ず感謝する日が来ます。
 主の洗礼の祝日を迎え、私達一人一人にとっての “洗礼” をもう一度考え直しましょう。

                                            ありがとうございました。

                   《説教後》 家庭訪問について
 いよいよ家庭訪問がはじまります。まず17日から沢野地区を回ります。家庭訪問について疑問を持っている方もいらっしゃると思いますので少し説明します。
 この家庭訪問は皆様から質問されるものではありません。私から質問します。その質問は簡単に答えられるもの、また時には少し答えにくいものもあります。言いたくないことを質問されるかも知れません。しかし私は一生懸命聞きます。ですから隠そうとせず、ありのままを答えて下さい。
 一枚の紙にご家族のお名前と受洗年月日、洗礼名、生年月日などを書いて、待っていて下さい。そして出来れば家族全員が写った写真があればありがたいです。私もカメラを持って訪問します。必要があれば撮ります。(悪用はしません!)
 何よりも 「何を望んでいて、何で困っていて、何で苦しんでいるか」 を知りたい。そういうことをおっしゃって下さい。もしかしたら解決されるかも知れません。おもてなしは考えないで下さい。掃除などしようとしないで “ありのまま” を見せて下さい。 「私はこの様に生きています」 という姿を見せて下さい。
  家庭訪問→施設・病院等の訪問→家庭訪問出来なかった人の面接→外国の方々の面接(何故日本まで来られて、日本に住もうとしたかた等)という順で回ります。
  少し時間がかかると思いますが、皆様のご協力をお願いします。
 

                      印刷用ページ(PDF PDF文書) 
このページの先頭へ                                主の公現の祭日 金 大烈 神父   2008年1月6日(日)
    
                        《四番目の東方の博士》
  まずカトリック信者としての常識を少し申し上げたいと思います。イエス様がお生まれになったのは12月25日ですね。そして今日は何の日ですか? “主の公現”の日ですね。はっきり申し上げてイエス様の実際の誕生日はわかりません。4世紀に西方教会(ローマ教会)がイエス様の誕生日を12月25日と決めたのです。それには理由がありました。当時は、古代ローマやギリシャ文化圏では太陽神を拝んでいました。その太陽神の誕生日が12月25日でした。そして、ローマの皇帝コンスタンチヌス(Constantinus)がカトリックを国教として受け入れた313年から色々なカトリック教会の教理を定め始めました。その中でイエス様の誕生日を決めて祝わなくてはならないという文化的な感情がありました。それで民がイエス様を神様として受け入れ易くするために、民が信じていた太陽神の誕生日をイエス様の誕生日としたのです。
 一方、東方教会(ローマ教会から東の方の教会)では古代エジプトから信じられている太陽神の誕生日が1月6日だったので、その日をイエス様の誕生日としました。西方教会はこの東方教会が祝っていた日を受け入れて、この日をイエス様の誕生を公に知らせる日 “主の公現の日” としたのです。このように12月25日というのは歴史的な理由があります。
 それではクリスマス・イブというのは何でしょう? 私たちの誕生日にはイブはありませんよね。これは、ユダヤでは日を計算する方法が今と違いました。一日は夕方(日没)から始まるのです。ですから私達の24日の真夜中は、ユダヤの人達には25日になるのです。そのことを理解するために25日の夜をイブという表現にしたのです。これも常識として覚えておいて下さい。
  今日の福音でイエス様を拝みに来たのは三人でしたね。彼らの名前は伝承によりますと “メルキセデク、バルタサル、ガスバル” だそうです。この三人を何と呼んでいますか? “占星術の学者” ですね。しかし、昔から伝統的には “東方の博士” とか“東方の王” と呼んでいます。昔は、王や博士になるためには何より基本的に星を観る能力が必要でした。高い地位の人は星が読む勉強をしたそうです。とにかく三人が拝みにきたことはよく知っていますね。彼らが新しい王であるイエス様にお祝いの品として捧げたのは、黄金、乳香、没薬(もつやく)でした。
  ところで皆様は、イエス様を拝みに来るはずだった博士がもう一人いた、という話をご存じですか? ヘンリ・ベン・タイクという牧師さんが書いた 『四番目の東方の博士』 という本があります。読んだことありますか? それにはおもしろい物語が紹介されています。
  もう一人の博士の名はアルタバンといいます。彼もメシア(救い主)の誕生を知らせる星を見つけたので、三人と一緒にイエス様を拝みに行こうと約束しました。ところで、自分の財産を売ってサファイア、ルビー、真珠を買い、待ち合わせの場所に行こうとした時、道に血を流しながら倒れている人を見ました。彼は躊躇せずその人を自分の乗ってきた馬に乗せ、旅館に連れて行き、そこの主人にルビーを渡して 「この人を看病して下さい。私は約束があるのですぐに行かなければなりません」 と言って約束の場所に向かいました。しかし間に合いませんでした。それで、彼は一人でベツレヘムに行くことにし、新しい王が生まれたというある旅館の馬小屋まで辿り着きました。しかし、そこには誰もいませんでした。ただ、一枚の紙だけ彼を待っていました。三人の博士が残したメモでした。「私達は新しい王を拝みました。先に失礼します。新しい王を拝んで帰って下さい」 と書いてありました。
  しかし、そこに新しい王はいませんでした。生まれた赤ちゃんは両親に連れられて、エジプトに行ったという噂を聴き、アルタバンは自分もエジプトに行こうと思いました。その時でした。彼の背後から馬の蹄(ひづめ)の音がして、女の人達の悲鳴と赤ちゃん達の泣き声が聞こえてきました。振り返って見るとたくさんの兵士たちが赤ちゃんを殺していました。ヘロデ王が “新しい王” の誕生を恐れて、ベツレヘム中の男の赤ちゃんを殺すように命令したためでした。ある家でお母さんが抱きしめている赤ちゃんを兵士が殺そうとしているのが見えました。アルタバンは、兵士の隊長にサファイアを渡して 「その赤ちゃんを殺さないで下さい」と頼み、赤ちゃんを救いました。彼が準備した宝物は真珠だけになりました。
  それから彼はイエス様に会うためにエジプトに向かいました。やっと彼がエジプトに着いた時、そこにはイエス様はいらっしゃいませんでした。それからもアルタバンは諦めずイエス様を捜して旅をしました。しかし会うことができず、いつの間にか30年の月日が経っていました。彼は70歳になっていました。
  彼はもうイエス様に会うことはできないと思い、それなら最後に聖地巡礼をしようとエルサレムに行きました。彼がそこに着いた時、大変な騒ぎが起こっていました。「自分は救い主だ」 と叫ぶ者が、今日十字架で処刑されるというのです。それを聞いたアルタバンは、その人こそ自分が会いたいと願い捜していたメシアではないかと思いました。そしてその人に会うためにゴルゴタの丘を登っていきました。その時、奴隷として売られていく女の子を見ました。その子は悲しい目で 「助けて下さい」 と叫んでいました。アルタバンは迷うことなく、残っていた真珠を身代金として渡してその女の子を解放してやりました。
  ちょうどその時地震が起こりました。聖書にイエス様が亡くなられた時 “大地が震えた”(マタイ27・52)とありますね。建物が揺れ、アルタバンの上に屋根の瓦が落ちてきて、死に至る状況に陥ります。アルタバンは死ぬ寸前に神様に 「申し訳ありませんでした。あなたが送って下さった新しい王に会おうと一生を捧げましたが、会えませんでした。今、もう少しでその方に会えるところだったのですが、会えずに死んで行きます」 と祈りました。すると 「悲しむことはない。あなたは私の立派な息子だ。あなたは既に私に三回会って私の子を拝んだ。あなたが助けたあの三人は、私が送った新しい王だ。心配しないで私のところに来なさい。あなたは三回会っているのだから」 という声が聞こえました。
  こういう話です。アルタバンはみんなに知られませんでした。でも三回自分の持っている物を捧げてイエス様に会ったのです。この話は信じてもいいし、昔から言い伝えられてきたただの作り話かもしれません。
  しかし、この物語を通してひとつ教えられることがあると思います。私達の信仰の道はイエス様に出会おうとがんばる道だということです。そして、どのようにしたらその道を捜せるのか、イエス様と具体的な感覚を通して会えるのかを考えさせてくれます。私達がどのような心を持っているかによって決まるのだということです。アルタバンという博士は現実にはイエス様には会えませんでしたが、会おうという気持ちを一回もあきらめなかったんです。一生その気持ちを持ってがんばったことで神様から認められたのです。
  ですから、私達も会おうという心があれば、ご聖体を通してイエス様に会えます。貧しい人や悲しんでいる人を通して、又今自分が嫌っている人の顔の中でイエス様に会えます。
  今日の公現の祝日に考えることは、私達が神様に何を捧げて生きているのかということ。形式的なことではなくて、本当に会おうという心を持っているのかどうかを考えてみましょう。アルタバンのような気持を少しでも持てる様にイエス様に願いましょう。
                                                                        ありがとうございました。
 

                      印刷用ページ(PDF PDF文書) 
このページの先頭へ                               神の母聖マリア   金 大烈 神父   2008年1月1日(火)
    
                         《皆幸せになりましょう》
 おめでとうございます。
  さあ、ちょっと考えて頂きたいことがあります。もし皆様方が私の様に “司祭” だったら、その司祭の立場で、この様にたくさんの方の前で、新年の初めの日にどの様な挨拶や願いをなさるのでしょうか。
  私は毎年考えてみるのですが、司祭が 「新年明けましておめでとうございます」 という言葉の中には、必ず 「今年は幸せになって頂きたい」 という心が込められていると思います。私が司祭として神父として皆様に出来る挨拶はこれだけです。 「今年、本当に幸せになって下さい」。
  では、何が幸せか説明しなければならないですよね。
  この一年色々なことが起きると思います。良いことだけではなく悪いこと、悲しいこと、色々なことが起こると思います。そして昨年と余り変わらないかも知れません。同じことの繰り返しかも知れません。しかし「皆様が幸せになって欲しい」という私の願いは皆様がどの様な心を持つかによって、同じ条件、同じ出来事でも、感じられる心が変わることを信じて頂きたいです。
  「幸せになって下さい」 という意味は、今年どの様なことが起こっても、どんなことが訪れて来ても、それを見る目を、皆様にとって “幸せになる方向” で見て欲しいということです。それが私の新年にあたっての心を込めた挨拶です。
  さあ、「幸せになって欲しい」その言葉の中にはカトリック信者である私達には一つの条件があります。
その条件は、私達がミサの時に一緒に叫ぶ言葉の中にあります。
  「キリストによって、キリストと共に、キリストの内に」。 このことを無視してしまったら、私達は “よいこと” が訪れても幸せを感じることが出来ません。その様にこの世は作られているのです。ですから信者である私達はいつも意識すべきです。どの様に私達はこの新しい年を幸せに迎えるのか、どの様に幸せに過ごせるのか。そのためには私達が持っているこの信仰、その素晴らしい宝物を生かしながら、この世を見ようという心、その姿勢が必要であることを皆様に申し上げたいのです。
 さあ、幸せになりましょう。 「私は幸せになることが出来る」 という強い気持ちを持って下さい。それが希望へとつながります。その希望の中でこそ、どんなことが起こっても私達は幸せを感じることが出来ると思います。そういう希望をもってこの一年を迎えられたら良いと思います。
  もう一つ、私の司牧の計画の中で、この一年また少し動きがあると思います。でも心配なさらない様にお願い致します。私達が何より “心” の準備が出来れば難しいことではないと思いますので、昨年同様、今年も皆同じ方向を向いて歩きましょう。
  そして最後に私はこの一年間の “宿題” を皆様に差し上げたいと思います。
  来年の今日まで家族のために祈りましょう。特に洗礼を受けているのに教会を離れている子供達のために。そして自分の周りの教会を離れている兄弟姉妹のために心を使いましょう。ご自分だけが信者の方は、この信仰を宝物としてまず一番近い自分の家族のために祈り力を尽くしましょう。私達が一年間頑張れば正しい流れになります。苦しんでいる人達のために励まし合うことの出来る共同体になります。

                                                                        ありがとうございました。